020有無の邪見

伊東幸典

「霊はおるのかね?」

唐突にこんな質問を受けたことがあります。私たちは、何でもかんでも善か悪か、白か黒か、決めなければならないと思いがちです。どちらでもないという曖昧さは好みません。その時の話を要約するとこんな具合です。

出かけようと思って戸締りを済ませたところ、突然、冷たい風が部屋の中を吹き抜けた。ゾクッとして、これは弟の霊だと思った。実は数か月前、弟がガンで死んだのだが、自身の健康状態がよくないことを察して葬儀の知らせをもらえず、百か日法要が済んでから連絡を受けた。葬儀に出席して、最後のお別れをしたかったができなかった。だから、霊となって現れたと思った。

そもそも霊とは何なのでしょう。言葉の意味を尋ねると、「形ある肉体とは別の冷たく目に見えない精神。また、死者の身体から抜け出した魂」とあります。目に見えないものということは、霊が存在するか否かは確かめようがありません。

『正信偈』には、龍樹大士出於世(りゅうじゅたいじしゅっとせ) 悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)(真宗聖典205頁)とありますが、仏教では、「有無の邪見」といって、「有るというのも無いというのも、人間の間違った見解であって、偏見・独断である」と教えられています。親鸞聖人も龍樹菩薩が示されたこの考え方を高く評価しておられるのです。

亡き弟のことを強く思えばこそ、霊の存在を確かめたくなったということが質問の本意でありました。でも、霊の有無など、どうでもよいことです。「弟さんが亡くなって、寂しい」という悲しい気持ちでいっぱいだということがよく分かりましたから。