029亡き母を縁として

桑原克

昨年1月末に母親が脳血栓で倒れ、40日ほどの入院、10ヵ月の自宅療養をしました。その間、お寺の行事の準備、聞法、仕事、介護と、目まぐるしい生活の中で、自分の心のあり方、態度が問われてきたことです。自分中心の考えしかないことや、介護といっても、本当に母に向き合ってはいない姿が浮き彫りになってきました。

例えばこんなことがありました。その日はお寺での聞法会でした。思うように体が動かない母は、周りに人がいないと不便ということで、私に「お寺に行かないでくれ」と何度か言いました。母の食事のこと、身の回りの準備をしてから、私は振り切るように出かけましたが、「そこまでしてお寺に行かんとならんのか」という母の言葉が、「お前は本気で仏法を求めているのか。役目とかお付き合いで関わっているのではないか」という、そういう声として厳しく問われた気がしました。

それでも、「仏法を聞かずにはいられない何か」が動くのです。自分でもはっきり言えないのですが、「聞きたい」という欲求が湧いてくるのです。自分でも不思議ですが、本気で道を求めている人の姿に触れたからでしょうか。

その母も12月の末に浄土へ還りました。お寺の本堂で通夜、葬儀をお願いし、その後の仏事では、その都度法話を聞きました。

近年願っていることは、家族の者に聞法のご縁を持って欲しいということです。母親の死を通して、子どもたちが仏法を聞くご縁ができたことが、何より嬉しいことです。長男は住職の勧めで特伝に参加してくれています。本人の気持ちはどうであれ、教えを聞く場に身を運んでくれていることを有り難いと思っています。

同朋会運動が始まって、やがて50年です。私にとっての同朋会運動は、一番身近な妻や子どもを聞法会に誘うことです。共に聞法することだと思っています。妻も推進員となり、お寺のお斎(とき)の準備や聞法会にも一緒に出かけることが増えてきています。最近、家族で仏法談義の時間がもてるということが、本当に嬉しいことです。

今回の母親の老い、病、死が、残された家族にとって、大きな仏法のご縁となってきています。南無阿弥陀仏。