021モスキートトーン 

三枝明史

皆さんは「モスキートトーン」という音を聞かれたことがありますか。蚊の鳴くような、あるいはガラスを爪で引っ掻いたような高い(高周波)嫌な音で、若い世代の方にしか聞こえないそうです。

私も先日、知人に聞かせてもらいました。試しに1m離れたところで聞いてみますと、これが全く聞き取れません。ところが、私よりもさらに離れたところにいた私の子どもたちには、とてもよく聞こえたのです。40代半ばを過ぎた私ですが、身体の衰えは感じていても、耳くらいはまだまだ若い人と同じだと思っていました。けれども、聴力も相応に年老いていたのですね。がっかりでした。

実はこの「モスキートトーン」は、東京都の足立区が公園に導入するというので話題になりました。「モスキートトーン」を公園に流すことで、長時間居座って迷惑行為をする若者たちを公園から退去させるのが狙いです。「モスキートトーン」が、若者たちにはその場に居ることができないくらい不愉快なノイズにしか聞こえないこと、その一方で大人世代の人にはほとんど聞こえないことを利用した作戦です。

この話を聞いて、私は、あるファーストフードチェーン店が、お客さんの回転を速くするために、わざと客席の椅子を堅くして、座り心地を悪くしているのだという指摘を思い出しました。安い料金で長時間ねばられたのでは、お店の方もたまったものではないでしょう。分からないでもない理屈です。

けれども、一見合理的なこれらの手法に対して、私はわだかまりも感じています。

一つには、「みんなの公園」とか「お客様第一」を謳いながら、若者やお客を悪意のある対象として一括りにして見ていることです。若者の全部が迷惑行為をするために公園を利用するわけでもないし、わざと長時間ねばるお客ばかりではないでしょう。それにもかかわらず、全員が不快音や堅い椅子にさらされるのは、おかしくはないでしょうか。

もう一つ。それは、どちらも、予め人間同士のコミュニケーションを放棄していることです。そもそも、迷惑な相手に対して「困ります、お願いします」と直接言えば済むことです。それができない、言いにくいということは、キレたら何をするか分からないという恐れの裏返しであり、「話せば分かるはず」という共通感覚の崩壊、他者に対する不信感の表れでしょう。

そして、かく言う私自身が「他者が分からない、恐ろしい」という人間不信に深く侵されていて、「モスキートトーン」を批評しながらも、心の中で「それも止むなし」と認めてしまっていること、それが最大のわだかまりの原因なのです。「モスキートトーン」を聞いて自己嫌悪に堕ちた私でした。

人間を超えた大きな世界から同じ人間・凡夫として等しく信じられているという感覚の共有こそが、人間同士の信頼の回復につながっていくのだと思います。