020猫のいたずら

伊東幸典

境内におりますと、参詣の方と「今日はいいお天気ですね」「暑くなりそうですね」と挨拶をしたり、「今年、祖父の年忌があたっておりまして」と、法務にかかわる用件でお話を伺ったりすることもあります。

さて、植えたばかりの花の苗をいつもの野良猫にグシャグシャにけ散らされた日のことです。これは、その日に限ってのことではなく、毎日続いていることなので、かなり腹が立っておりました。野良猫のいたずらなど他の人から見れば些細なことかもしれませんが私にとっては重大なことだからです。そこへ、電動車椅子に乗ったご老人がお参りにいらっしゃいました。いや、正確に言うと、お寺が懐かしくなって訪ねて来られました。「ここのお寺の方かね?お父さんは元気にしてみえるかね」「はい、おかげさんで」「そうかね、わしは昔、ここでよく遊ばせてもらった者だ。みんなで、野球をしたなあ。(本堂を指さしながら)あのガラスを割って叱られたこともあったなあ」と、実に懐かしそうに話し始められました。その口ぶりはあまりにも穏やかで、ついつい聞き入ってしまいました。どこのどなたかを伺うこともしないうちに、「それじゃあ」と言って、くるりと電動車椅子の向きを変えて、門の方へ去っていかれました。その後、修復を再開したわけですが、それまでのカッカとした気持ちは、蔭も形も無くなっていました。あのご老人は、わずかな時間で私の気持ちを洗濯し、リフレッシュして下さいました。その時の私のことなどお構いなしに話されたのだと思いますが、あのままカッカしながら作業を続けていたら、きっと誰かに八つ当たりをしていたに違いありません。

「煩悩具足の凡夫」とは親鸞聖人が、状況によって振り回されるしかない人間存在の悲しさを自覚された言葉です。程度こそ違え、誰もが感情に流され生きています。怒っていたかと思えば、次の瞬間に微笑んでいたり、いつも感情に振り回され、上手くコントロールできないでいます。それでいて、イライラしている自分は認められず、周りのせいにし、穏やかな自分は認め受け入れられるとなる訳です。ご老人と野良猫に、「最近かなりイラついておりますな。自分の本性を忘れていないか」と問われたご縁の話でした。

今朝も野良猫に咲き始めたばかりの朝顔がグシャグシャにされていました。「また、やられた」これでも以前よりはカッカしないでいたつもりです。