018困っているのか、悩んでいるのか 

大賀光範

先日あるご門徒が、中日新聞の連載小説『親鸞』について、内容が難しいという感想を述べられた後、「少々くどいな」とおっしゃいました。比叡山から下るところも、鹿野さんが行方不明になるところも、どうしてあそこまで書く必要があるのか、ちょっとくどく感ずるということでした。

なぜくどく感じるのかと考えてみると、五木さんは親鸞聖人を悩み続けている人として描いているからではないでしょうか。小さい時の姿から始まり、30余歳を書いている今に至るまで、親鸞聖人はずうっと問題を抱え、悩み続けていらっしゃいます。そのような悩む姿を描写していけば、何を悩んでいるのかを伝えるために、どうしても言葉を重ねなければならないだろうし、そうすると表現もくどくなるのでしょう。

この方の感想を聞きながら一つ思い起こしたのは、昔お世話になった方からの一言でした。それは、「お前は悩んでいるのか、それとも困っているだけなのか」という言葉でした。自分にとっては大きな問題だと思って考えているつもりでしたが、それを「困っているだけではないか」と指摘されて驚いてしまいました。その時に「悩む」ということと「困る」ということが違うと初めて知りました。

今、私が「困る」という言葉を使う時はどういう時かというと、例えば地球温暖化への対処をどうするかという時です。門徒さんの寺離れにどう対応するかという時にも、やはり「困ったなあ」と言う。大きな問題のように扱っていても、「困ったなあ」と言った時に、その問題がなんだか軽い事柄になってしまったように感じてしまいます。本当は自分の問題になっていないような時に、「困った」という言葉を発しているようです。

考えてみれば、現代は便利で快適な世の中になってきたせいか、あまり悩むということが無い時代になっているのではないでしょうか。「困った、困った」と言っておれば、一日がいつの間にか終わってしまう。今日は一体何をしたのか分からないような薄っぺらな一日に終わってしまうのではないでしょうか。

「悩む」とは、それに対して、自分の問題として考えている姿と言って良いのでしょう。小説の親鸞聖人は、他人事でないからこそ、目の前の出来事が重い問題となり、気軽に「困った」と言えず、解決の方途が見えなくても悩み続けておられます。言わば、本当に真面目に人生に立ち向かっていらっしゃるからこそ、悩み続ける人生を歩まれているということではないでしょうか。どんな問題であれ、それはたった一度きりの人生に与えられた出来事であり、二度と出遇うことができないかもしれない。だから、そのことに真正面から立ち向かうという姿が描かれているように感じます。小説の親鸞聖人の姿を読みながら、私との違いを改めて感じることができました。