008「人」ということ 

加藤雄

先日、ご門徒のAさんから「本堂で葬儀をさせてほしい」と依頼がありました。亡くなられたのは、夫も既に亡くなっており子どももおられない84歳の女性でした。Aさん夫婦は十年程前にその方と知り合いになってからは、いろいろ相談にのったり、身の回りの世話をしたりしていたそうです。さらには病気になった時は看病し、そして最期を看取ったそうです。通夜・葬儀もこのご夫婦が喪主として進められていきました。

私は、親でも親類でもない、このご夫婦がまるで血のつながっている家族のように喪主を務められている姿に「今の時代にこのような人がいるのだ」と感動する一方で、最悪の場合には家族でさえも殺人が起こってしまう現在の家庭状況について考えさせられます。地域社会は崩壊し、家族はみなバラバラとなり、時に敵対化し、家族が「利害関係」でしかつながっていないのではないかと思うことがあります。

孤独な生活の中で「なぜ自分は苦しまなければならないのか」と悩んでいますが、「教え」を聞くことによって、人間関係の悩み・苦しみを逃れて、孤独な世界に閉じこもっていること、また、自分の都合でしか人を見ていないということを教えられます。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』に
何ともして、人になおされ候うように、心中(しんじゅう)をもつべし。(真宗聖典875頁)

とあります。人間関係の中で自分を教えられることが、実は苦しみを越えていく道であると教えられます。

たまたま私たちは人間としての命をこの世に受けました。三帰衣文に「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く 仏法聞き難し、いますでに聞く」とありますが、生きとし生けるものは尊いと教えていただいているにもかかわらず、背信しているのが私である。そのことが明らかになりそこから法を聞いていけるかということを、何年かぶりの本堂での葬儀で私は気づかさせていただきました。