033報恩講に遇う 

海老原容光

毎年11月21日より28日まで、京都東本願寺では親鸞聖人の報恩講が営まれます。そして私たち真宗門徒も「一年は報恩講に始まり報恩講に終わる」という言葉で語り継がれているように、報恩講は一年で最も重い、厳粛な仏事としてのお勤めをし、相続してまいりました。

では、私たち真宗門徒にとって報恩講が何故一番大切な仏事なのでしょうか。

それは親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えに出遇えたということです。聖人は念仏によって我が身に遇えるという道を示してくださいました。つまり、念仏の心を90年の生涯をかけてご苦労され、私たちのところまで伝えてくださいました。これが何よりの聖人から賜った恩徳であろうと思います。

もし念仏の教えに遇うことがなかったら、もし念仏の心を教えていただくことがなかったら、この私の人生は何だったのだろうか、とその真実の意味を我が身に感ずることが報恩講に遇うことでありましょう。

しかし、今改めて私たちの現実のありさまは、自我分別の生き方以外の何ものでもありません。親鸞聖人は人間の正体を「凡夫(ぼんぶ)というは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと」(真宗聖典545頁)と悲嘆されておりますが、私たち人間は、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)の三毒の煩悩に覆われ、焼かれ、それに酔いしれそこから一歩も出ることもなく眠り伏せているありさまであります。『出離の縁あることなし』(真宗聖典215頁)念仏の教えに遇うということはこの煩悩具足の我が身が、さまざまな境涯をへめぐる我が身が、一切の計らいをもってしても乗り越えられない業縁の身への頷きでありましょう。浄土真宗はこの身に展開します。