031報恩講‐私を見せて下さる智慧に遇うことが出発点‐ 

森英雄

人間の価値観は、大きいこと、勝つこと、儲かること、健康であること、目立つこと、能力のあること、知識的であること等に中心をおいている。だから、自然と優劣の意識に縛られて生きざるを得ない。その中で安心を得たいがために条件的に有利な世界を実現しようとして、一生を終えるというのが実情ではないでしょうか。

いつも他人と比べてしか価値を感じないから、自分の生きていること、そのものに充分満足して生きることができないようである。自分で勝手に立てた優劣の基準に満たないと不満や不足が出て、生きることにも嫌になってしまう。反対に条件が満たされると安心と満足が訪れるかというと、そうでもないらしい。

結婚する前は夢が叶うのでワクワクしているが、いざ一緒になると相手の欠点ばかりが目についてしまう。優しくなろうと思っても、相手が自分の思うとおりにしてくれないので、不満が高じるばかり。では口数少なくおとなしい相手がいいのかというと、何か頼りない気がし、覇気がないと文句を言う心がうごめく。

一体自分はどうしたらいいのかがはっきりしない。そういう自分に対し、自信がなくなることが大事で、文句を言わねばならない自分に焦点が当たる、そういう時をいただいている訳です。それは、自我の殻が破れ、ほんの少しだけれども光が差し込み、仏のはたらきが初めて私に届く時なのです。結婚を期に、相手を自分のモノと考え、時に奴隷扱いしてしまう。要求の対象物としてしか見られない自分を知らせてくださる相手なのに、相手ばかりを問題視してしまう。

その業もお与えです。そこにはたらく自分自身を照らすハタラキを光明と言います。その力が強くなって初めて、自分という殻の固さを思い知らされます。

その光明が自我の殻を破る時、仏様の一念が私の上に名乗りを上げる。それが南無の心です。実相の知恵です。その知恵に導かれて生きる生活が満足と安心をもって始まるのが報恩講の原点です。