031「報恩講」に思うこと 

員辨暁

以前、マスコミの方が、本山報恩講に参られたおばあさんに次のような質問をされたそうです。「おばあさん、今日はここで何をお願いされましたか?」するとおばあさんは「御開山に申し訳ないと報告に来ました」と答えたそうです。なんだか、その答えにキョトンとしたマスコミの方の顔が浮かぶようです。

さて、昨年の法語カレンダーに「人間はものを要求するが、仏はものを見る眼(まなこ)を与えようとされる」という言葉が書いてありました。普段、私たちは仏さまに手を合わす時には、何かものを要求していることが多いようです。

しかし、浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、そんな「私たちが何かを要求し、ものを与えていただく仏さま」ではございません。そうではなくて、私たちに「ものを見る眼を与えようとされる仏さま」なのです。このことを逆に言うと、私たちは「ものを見る眼」を持っていないということになります。

では、どこで私たちは「ものを見る眼」を持ってないということが言えるでしょうか?

私たちは日常生活の中で、よく「こんなはずではなかった」という言葉を口にします。つまり、私たちは当てにならないものを、常に当てにしているのです。最初から最後まで、きちっと当てになるものを当てにすればいいのですが、悲しいかな私たちは、この「ものを見る眼」を持っていません。勝手な自分の思いの中で、「あれさえあれば幸せになるだろう、これさえ手に入れば幸せになるだろう」と、あれやこれやといろんなものを手に入れるわけです。でも、その手に入れたものは本物ではないですから、いずれ当てにならなくなって「こんなはずではなかった」という言葉が出てくるのです。

今年も報恩講の時期がやってまいりました。私たちが「阿弥陀さまに何かを願う」のではなく、「阿弥陀さまは私たちに何を願われているのか」を聞いていくことが大切なのです。