028普遍なるもの

佐々木達宣

今年の夏休み、家族旅行で上高地へ出かけました。ご存知のように、上高地は穂高連峰に囲まれており、そのすばらしい眺望で有名な観光地です。若い頃は重いザックを背負って、北アルプスの槍や穂高と渡り歩いたものですが、今ではそうした山々を麓(ふもと)から見上げることが多くなってきました。今回の旅行も上高地散策が目的だったのですが、梓川沿いの山道を徳沢方面から若い登山者が日焼けした顔で満足げに下山して来るのを見ると、自分もまたチャンスがあれば、などと突き出たお腹を見ながら少し寂しく考えておりました。

河童橋で写真を撮っていると、初老の男性が奥さんに「20年前とちっとも変わっていないねぇ」と話しかけておられました。きっと20年前にもお二人で来られたのでしょうか。その日も河童橋界隈は、街中のような賑わいでした。ここを訪れる人々の中には、変わらないものに対する憧れ、尊敬、畏れ、安心、そうした様々の思いで訪れる方もおられるでしょう。確かに上高地は観光地として日々変化しています。でもそこから見上げる穂高の山並みは、太古の昔より変わらない姿を我々に見せているのです。

蓮如上人は『御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』において「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」(真宗聖典883頁)と教えられました。私たちは日々社会の中で生活を営んでおります。ですから我々の考えや行動を具体化する場として、世間は大切にしなくてはいけない。でもそれより大事なことがあります。世間での約束事や価値観は、社会がめまぐるしく変化するのに応じて変わってしまいますが、仏法は普遍であるということです。そうした「普遍なるもの」を拠り所として生きることこそが「仏法をあるじとする」生き方なのです。

現実社会に生きる我々は便利さを求めて、変化するものはすぐに古くなることに気づかず、新しいものに飛びつきます。本当に新しいものとは、私たちの意識や生活の中に形を変えず、そっと寄り添っておるものではないでしょうか。