007「勿体無い(もったいない)」という言葉

瀧幸子

先日、同朋の集いで、あるお方が「近頃は、冷蔵庫の中で食べ物を腐らせる達人が増えましたね」と皮肉な指摘をされました。私も同じような失敗をしています。安い品を見るとついつい購入してしまい、いつしか賞味期限切れとなったものが冷蔵庫の奥から出てきます。そのたびに「ああ、勿体無いことをしてすみません」と小声でわびながら、そっと捨ててしまいます。

食べ物を粗末にしてしまった申し訳なさから出る「勿体無い」という感覚と、昔の人が言われた「勿体無い」ということとは少し違った面があるようです。

平野修先生は『親鸞からのメッセージ』という著書の中で「勿体無い」ということについて述べておられます。「法蔵菩薩」とか「本願力」とか表現されても私たちには馴染みにくいだろうということからでしょう。身近な例として「勿体無い」という言葉の意味が説かれていました。

「勿体無い」とは体(主体)が無いということではない。それは、例えばのどが渇いてやりきれない時に冷たい水を飲んで「ああ美味しいなぁ、水って有り難いなぁ」という気持ちになる。水自身には「どうかしてやろう」というつもりはないけれど、「ああ美味しいなぁ」ということを通して愛情というものを感じ取ることがある。水に限らず、お米など私たちを在らしめている繋がりいついても、何か「願い」というものがあるかのような働きを感じるということで、それを昔から「お陰さま」とか「勿体無い」という言い方で教えられてきたんです、と。

平野先生のご了解に聞いてみますと、私たちが軽い意味で使っています「勿体無い」という言葉も、「勿体無い無量のご縁の集まりですよ」と、私たちの生き方が問われ、願われているように感じられます。

「勿体無い」とは、本当の願いに生きて欲しいという「南無阿弥陀仏」に繋がる言葉として、大事にしていきたいものです。