005俄雨(にわかあめ)の如し

長崎慶麿

親鸞聖人が書かれた『高僧和讃』の中に「濁世(じょくせ)の起悪造罪(きあくぞうざい)は 暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり」という和讃がございます。(真宗聖典494頁)五濁悪世の衆生が、互いに自分の考えを正当化し、他人を非難して、他の立場に耳を傾けようとしない。そのことによって、人間不信に陥り自分中心にしか生きられなくなってしまう。人々は不健康になり、人として生きる喜びがもてなくなって本当は幸せを求めているのに、かえって不幸の因ばかりつくっているような、そういう我々の生活は、暴風駛雨の如くであると。暴風は台風のこと、駛雨は俄雨のこと。その暴風駛雨ということと我々の生活と全く同じことだといわれるのです。

同じ事柄であっても、我々の根性は、機嫌のいい時には素直に聞き入れることができるが、機嫌の悪い時は素直に聞き入れることができない。例えば、今まであんな善い人はいない、本当に信頼することができる人だと言っていたのに、ちょっとしたことから、その人を疑ったり憎んだり、陥れようとしたりします。本当に我々人間の根性はお天気のようなもので、何時どうなるか分からない。まさに「俄雨の如し」ではないでしょうか。

今日、イラクへの支援問題・北朝鮮の拉致問題・その他の諸問題も、国の為、人の為という美辞麗句を並べ立てて、対処しようと努力しているようですが、その中身というと、国対国、人対人との思惑がからみ、虚々実々の駆け引きの中で、自国を、自分を善しとする私心でもって対処していることも、暴風駛雨に異なることがないと、諸仏は見抜いておられるのです。そういう哀れな生き方しかできない我々のあり方を「お前らよ、本当にそれでいいのか」「どうか本当のことに出遇ってくれよ、お念仏申せよ」と叫び続けてくださっておられるのが、このご和讃ではないでしょうか。