カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2002年

036あとがき

『心をひらく』第24号をお届けします。

浄土真宗のみ教えは、仏に遇うこと、それは「自己を知れ」ということが基本です。それは、禅宗が教える公案の「父母未生以前、本来の面目」を知れという、生まれる前の自分を知れというものとは違って、どんなに教養のある人でも、その根性をみてみれば「色気に食い気に体裁」で生きているという罪悪感を強調するものと言えるでしょう。

こと日常の生活そのものから教えられる我が身とは、どろどろした本当に計算高い、救われない身であります。だからこそ、如来さまが救わずにはおかないとご本願を建てられたご苦労がしのばれてくるのです。人間そのものを誤魔化しなしに見据えられた仏さまの眼に遇うことによって、ようやく一歩が歩めるのではないかと思います。

この小冊子がみなさんの聞法の一助になることを念じております。

035同朋とは?

片山寛隆

今年はワールドカップで夏の幕が開き、日本中がサッカーに熱中しました。まさか、日本チームがあれほど善戦するとは夢にも思っていませんでしたが、現実には16強に仲間入りするという快挙を挙げ、日本中大フィーバーしました。

日本が16強に入った時に某知事がテレビのインタビューで「このワールドカップを日本で開催したことは日本人にとって民族と国家ということを体験できた良い機会だった」と発言していましたが、その後、日本が敗れても、民俗を越え国家を越え、最後まで応援したことは周知の事実です。

ところが、準決勝の前日に韓国と北朝鮮との間に海上でのトラブルがあり、準決勝を前にして「ワールドカップに水を差す北朝鮮を許せない」という、北朝鮮を非難する声が世間で充満しました。

しかし、私たちは忘れてはいないでしょうか。北朝鮮も含んでのワールド(世界)ということを…。思いを共有するものだけ、利益を共有するものだけが仲間ではありません。過去に我々日本では、「同胞一和」という言葉のもとに他を排除し、仲間意識を強要して過ちを犯してきました。

仲間意識に捕らわれる「同胞(はらから)」ではなく、親鸞聖人が思いを越え、利害を越え、血を越えて、真実の教えを共にする「同朋」ということを、今一度尋ねねばなりません。

034風風ふくな しゃぼん玉とばそ

桑原範昭

8カ月になる孫とキーライトというオルガンのような楽器でよく遊ぶ。色々な曲が入力されていて、ライトの点くキーを押すだけで曲の弾けない私でもさまになるから不思議である。孫も分かっているのか分かっていないのか、勢いよくキーを押しては無邪気にはしゃぎ喜ぶ。日がら、眠ったり笑ったり泣いたり、喜び悲しみを全身で表す、いのちそのものが躍動しているように見える。

臨床心理学者の河合隼雄さんが「心の自然破壊」ということを言っている。人が死ねば悲しい、人を傷つけると自分の心が病む、そんな心の自然のはたらきが働かなくなった。人間の心を流れている川の水が枯れたり、流れなくなっているのではないか、というのだ。心の自然破壊は、自然界の破壊を招き同時に公害という人間への報復を生んだ。またそれは、多発する犯罪という形でも表れている。

例えば、3才の女の子を餓死させた事件があった。この飽食日本での出来事だ。21才のその子の両親が逮捕された。

中国の孟子は言う「人にはだれにも忍びざるの心あり」と、それは他人の不幸を見過すごすことのできない心を言う。一言で言えば、いのちに対する畏敬の心であろう。人間であるならばこの心が必ずある、というのである。

大正期に作られた童謡「しゃぼん玉」を思い出す。3才の愛娘を失った野口雨情の愛惜の詩に、中山晋平がメロディーをつけたものだ。「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで 壊れて消えた」空の青さとまわりの景色を映して舞い上がっていくしゃぼん玉が目に浮かぶ。しかし、その明るい感じが二番の歌詞からがらりと変わる。「しゃぼん玉消えた とばずに消えた 生まれてすぐに 壊れて消えた」しゃぼん玉とはいのちのことを言うのであろう。当時、貧しさのためにまだ地方に間引きの風習が残っていたと言われる。その詩には、無心にしゃぼん玉をとばす子を見て、その子の健やかな成長を願う親の心と、幼くして亡くなっていったいのちへの悲しみが込められているのであろう。「子どもの魂よ、天へまっすぐ昇って幸せになってね」と。「風風ふくな しゃぼん玉とばそ」

033迷い

渡辺勝美

過日、知人から姉の家に不都合が起こるのは、実家の墓相が悪いからだと、だから直してほしいと週末毎に家に来る。そんなことで不都合が起こるとは思わないけれども、話は一方的でこちらの話は通じないし、憂鬱である、どうしたら良いだろうかと、相談を受けました。

みなさまはどう思いますか。

私にも同じような経験があります。以前、母に「どうかく」とかいうできものが腰の所にできて、大きく腫れあがり、痛そうでした。医者に行くように言ったのですが、どこで聞いてきたのか知りませんが「矢合観音の井戸水をつけると治るから行きなさい」と勧められたと言って聞きませんでした。「治るはずがない」と言っても納得しません。結局、その水をつけても痛みは引かなかったのでしょう。病院で治療を受けて治りましたが、こういう時、なかなか聞く耳を持たないのが私たちではないでしょうか。

相談を受けた知人は、真宗のご門徒であると言われるので、お姉さんが見えたら「家の不都合が墓相と関係があるかどうか、私は分からないので、住職さんに一緒に聞かしてもらいましょう」と貴方が誘って、お寺へ行ってくださいとお勧めしました。後日、報告を受けましたが、住職様は丁寧に話してくださったそうで、その後はその話で来られることはなくなったそうです。

こんなことは日常的なことのように思うのですが、如何ですか。例えば病院での「四」「九」という数字を嫌ったり、退院、結婚、納車、葬式等の日を選ぶように、真実の根拠を尋ねることなく、そのことにとらわれ、迷ってしまう私があるのでしょう。しかし、よく考えてみると、迷いは外にあるのではなく、外に起こった出来事を縁として、惑う私にあるようです。些細なことに執われ、迷う私自身を自覚させられるに、仏法に出遇い、目覚めるということがあるのではないでしょうか。改めて、惑う私に気づくご縁でもありました。

032報恩講のこころ

森英雄

家を造って便所を作らないと人は住めません。人生における便所は何か。要求、怒り、愚痴、ねたみ、恨み、劣等感、敵視など様々な感情も含めた複雑な心であろうかと思います。この便所から臭いがするようでは、家に居ても落ち着きません。臭いの元を絶たなければ、人としてお付き合いもできません。その為に便所には浄化槽というものがあります。

私たち人間にはお念仏の道が仏さまから用意されています。この恨みつらみの宿業(しゅくごう)を嫌っていては、自分で自分が好きになれませんし、相手を警戒しながら付き合うことにもなり、安心して生きてはいけません。この「ただ念仏一つで助かる」という尊いみ教えも自分の姿を思い知らされるということがなければ絵に描いた餅にしかなり得ません。

では、どうするのか。恨みつらみのその感情が起こってきた時、この時がチャンスだとおっしゃる訳です。普段何もない時、私たちは感情が平穏ですから、他人が怒りにまかせてものを言っているのを聞いた時、「そんなに怒らなくてもいいのに」と相手を非難します。そのように、上から解ったような顔をするように仏さまが私たちの心に入ってくださって、どんなに傲慢かを教えてくださっているのです。このお心に気づかされた時、私たちは生まれて初めて自分の本当の姿に驚きをもって出会うこととなります。

この時初めて、仏さまが私の業の中に入って、長い間苦労されていたこと「五劫思惟(ごこうしゆい)の本願」が身にしみて感じられてまいります。

そうなって初めて自分の業を拝める身にさせていただけるのです。

自分の業の身を誰でも拝めるようにさせてくださる用(はた)らき仏さまといい、そのお仕事を身に感じて、その尊さを忘れないようにと報恩講が、毎年勤められています。

031報恩講

服部了惠

「報恩講」というのは、私たちの、浄土真宗をお開きくださった、親鸞聖人のご命日の法要のことです。親鸞聖人のみ教えをいただく、真宗門徒にとって、報恩感謝の心を表す、大切な法要であります。

『歎異抄』に「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」(真宗聖典635頁)とあります。「報恩の心」とは、物や知識によって得られる「所得の豊かさ」ではなく、この私の「存在の豊かさ」に、気づいていくことではないでしょうか。

外国のある詩人が、こんなことを書いています。「もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには、樹が育ちません。そして、樹々なしには、紙ができません。ですから、この紙の中に雲があります。この一ページの存在は、雲の存在に依存しています。紙と雲は、きわめて近いのです…この小さな「一枚の紙」の存在が、宇宙全体の存在を表しています」(ティク・ナット・ハン『仏の教えビーイング・ピース』)

この文章にある「一枚の紙」とは、あなたであり、私を指しているのです。私が生きているということは、私以外の、一切のあらゆるものと繋がって、私として生きているのであります。

毎日毎日、目の前のさまざまなことに、振り回され、流されている私たちですが、それを一番根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせている、大きないのちのはたらきがあるのです。この大いなる如来の大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。

030松枯れ

渡邉啓義

昨年の秋、本堂の前にある、樹齢が200年ほどの松の木が枯れました。今又、庫裏の前にある同じくらいの樹齢の松の木が、枯死寸前の状態で、現在樹医さんに治療をしてもらっている最中であります。本堂の前に立っていた松が、松喰い虫にやられて枯れてしまった、惜しいことをしたでは、済まされない感じがします。

1年毎に庭師さんに来てもらって、庭木の手入れを繰り返してきたそのことで、奇麗になった、格好いい庭木に造ってもらったと喜んでいた自分が厳しく問われたことでした。枯れて命終わったその松の木は、毎年必ず芽を出し、やっと大きく伸びたと思ったら、住職に頼まれた庭師さんによって切られ、住職の好みに合わせて形づくられ、その姿を見て良い姿になったと喜んでいる住職である自分には、微塵も、切られた松の木の痛みも、願いも、感じたことが無かったということでした。

切られ、又切られ、台風にも、地震にも耐えて、200年程も、本堂の前に立ち、その下を通って参詣する方々を見守ってきた松、本当に生きるということは、どういうことかを、松自身が身を以って、私が、そのことに目覚めることを願っていてくれたように、思われてなりません。今現にご苦労くださっている法蔵菩薩様の物語が、そのことと重なり合って体の四肢五体に感ずる尊いご縁でありました。自分の本性の無自覚性は、私の命終わるまで毎日続くことであります。

お世話になります。

029ありのままに

鈴木律子

私は座右の銘とか、好きな言葉はと問われると、「ありのままに」と答えています。

近頃、足が痛い、腰が痛い、肩が凝ると言いながら、家事や草取りができないと、不平を言っています。どこの整形が良いとか、あそこの総合病院に新しい医療器具が入って良いと聞けば病院を変えて診療を受け、投薬されるのは痛み止めと胃腸薬それにシップ薬です。痛み止めを飲めば、痛みは和らぎますが胃の具合が悪くなり、とても飲み続けられません。ある時、3箇所の病院の薬を見比べて見ましたところ、同じ薬が処方されていました。

医者に申しますと「その薬はよく効くし、出しやすいので、どこの病院も用いるのですね、胃の調子が悪いときは、飲むのを控えてください。足の痛みは加齢によるものです。正座をしないよう、草取りをしないようにして大切にしてください」と申されたので、即座に正座と草取りは私の仕事ですと申していました。「ありのままに」生きると申しておりますが、先生のおっしゃることもそのまま聞こえず、また、いずれの治療が良いと聞けば耳を傾け、あちらの温泉が良いと聞けばうなずき、「ありのまま」とは私の気の向くまま、気の済むままと、我がままに流されています。

寺の坊守として、聞法の場に居ながら、聞法から一番遠いところに居る私でございました。お彼岸、報恩講と、門徒の皆さんに準備をして聞法の場を用意している私と思い上がっていましたが、私のために準備し用意してくださっている、法話であり聞法の場でありました。

028明晰な眼(まなこ)

飯田隆弘

オウム真理教の事件以来、宗教に関わることは怖いことだという風潮となりました。何故そのようことになったのでしょうか。

「信ずる者は救われる」というどこかで聞いたフレーズによって、一つのイメージが作られ信仰の奴隷となり、あの悲惨な事件が引き起こされたのではないかと思います。

仏教は自覚の宗教であると言われます。一体、何を自覚するのでしょうか。親鸞聖人のお言葉に「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと…」(真宗聖典545頁)とありますが、これは、親鸞聖人の「賢」に対する「愚」という自覚であり、教えにより照らし出された偽らざる人間の本質でありましょう。

また、亀井勝一郎氏の本をめくっていて目にとどまった文章に「信ずることによって、救われたというが、そんなことがありうるだろうか。信仰が自己に対する明晰な眼をもたらすものならば、救われる身であるよりも、いかに救われがたい身であるかが、まず自覚されるはずだ」という一文があります。亀井氏の言われる明晰な眼とは、まさに、親鸞聖人の「愚」の自覚の世界を指しているのではないでしょうか。

同じ人間としての親鸞聖人のお言葉に、ホッとして同時にゾッとするのは私だけではないと思います。

生きることが条理的でなく不条理で、合理的でなく不合理でしかない、思い通りにならない現実に出合う中で、他でもない明晰な眼で自己を問う、そこから親鸞聖人の教えに出遇う歩みが始まるのではないでしょうか。

027お仏供(ぶく)さん

三枝明史

みなさんは毎日お内仏に仏飯をお供えされていますか?

ご存知のように、お仏飯は正しくはお仏供といいます。このお仏供さんの扱いについて、よく次のようなお尋ねを受けます。

「お仏供さんはお供えしなければいけないものなのですか?」

「お寺さんが来られる日にだけ供えることにしてはいけませんか?」

「お供えする数を減らしてはいけませんか?」

「なぜですか?」とこちらが逆に問いかけますと、決まって「わが家では毎日ご飯を炊きませんから」とお答えになります。あるいは、もっと正直に「冷えて硬くなったご飯は誰も食べない」とか「とても毎日続けられない」と言われる方もいらっしゃいます。

「それぞれの家庭の事情の中で、お仏供さんあり方を考えていただければ結構なのです」とお答えしながらも、いつも何か割り切れないものを感じています。

それは質問をされる方のお内仏に対する向かい方(姿勢)です。言葉の中に「仏さんやご先祖には申し訳ないけれど…」というような一言が含まれていないのです。つまり、言外で一貫して主張されていることは自分たちの都合なのでしょう。

本来、ご本尊(尊い存在)として、どこまでも仰いでいくべき仏様が、人間と対等に、いや人間よりも低い位置に置かれてはいませんか。人間の側の頭の高さ、視線の高さが感じられて仕方がないのです。

「お給仕」という言葉が示しているように、お内仏は私たち人間がお仕えすべきものです。日々お仕えすることを通して、仏の教えを身近に学び、「生かされている」自分を確認していくべきものでしょう。

みなさんにお尋ねいたします。

「お給仕」がいつの間にか「お世話」になってしまっていませんか?

「お供えすること」が「与えること」に変わってはいませんか?