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024浄土

三枝明史

お釈迦さまが教え、親鸞聖人が確かめられ、私たちの先輩方が大切に伝承してきた「浄土」。「お浄土」とはどのような世界だったのでしょうか。単なるあの世、死後の世界だったのでしょうか。生きている私たちには無関係な世界なのでしょうか。「浄土真宗」の門徒を名乗る私たちですが、その肝心要の「浄土」が何であるのか、私たちにとってどのような意味をもっているのか、はっきりしませんよね。情けないことですが、私も現代の言葉で上手に説明する術を持ち合わせておりません。

最近、ある女性の方から聞かせていただいたお話です。

その方のお姉さんは一人暮らしをされていたのですが、数年前に病に倒れ病院での療養生活を余儀なくされているそうです。妹さんたちが世話をされているのですが、お姉さんはとにかく家へ帰りたくて仕方がない。リハビリにも熱が入らず、「こんなところはもう嫌だ。家へ帰りたい」と、ことあるごとに不平不満を訴えておられたそうです。

そこで、とうとう妹さんたちは決意されて、お姉さんの家を車椅子での生活が可能なようにリフォームされたのです。そして、お姉さんを一時帰宅させて、家中を見てもらいました。お姉さんはすごく喜ばれたそうです。

それから、お姉さんは変わられたそうです。「家に帰りたい」と一切口にしなくなったのです。他の患者さんとも打ち解け、リハビリにも積極的になられたそうです。

「あんなに家へ帰りたいと言っていたのに、一体どうしたことでしょうか。不思議なことです。せっかく家も直したのだから、いつ帰ってきてもらってもいいのに…」と、妹さんも苦笑されていました。「きっと安心したのでしょうね」と。

「いつでも帰ることができる家」を得たことの安心感は、これほどまでに人を変えていくのでしょうか。嫌でたまらなかった病院生活すらも積極的に引き受けていけるようになるのですから。

私たちは不満を消したり、不安から逃れたりすることが安心であると考えています。けれども、本当の安心とは、不満を引き受け、不満と向かい合える力のことを言うのでしょうね。そういう力をお姉さんから「いつでも帰ることができる家」が引き出したのでしょう。「いつでも帰れる場所がある。それならば、もう少しここで頑張ってみて、帰って行くのに相応しい身体(人間)に少しでもなってから帰ろう」と。

いろいろな解釈ができるのでしょうが、私はお話を聞かせていただきながら、何となく「浄土」という言葉を思いました。

さて、みなさんは本当の安心の場所をお持ちですか。

023極重悪人(ごくじゅうあくにん)

酒井誠

『正信偈』の源信僧都(げんしんそうず)を讃えられたところに、

極重の悪人は、ただ仏を称すべし、我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう、といえり(真宗聖典207頁)

とあります。

極重悪人と言いますと大変恐ろしい人のように感じてしまいますが、一体、極重悪人とはどのような存在なのでしょうか?

新聞やテレビでは、毎日のように虐待や殺人など悲惨な事件が報道されています。その度に様々なコメンテーターが登場し、犯人を悪人として徹底して非難し、人間の心の荒廃を嘆き、どう対策をとるべきかを話しています。

私はそういう場面を見せつけられる度にある違和感を持ちます。どういうことかと言いますと、彼らは自分が善人であって悪とは無関係であり、悪をなす可能性はないと思っているのか?ということです。

勿論、社会的には法律から外れる行為をした者は悪人と言われます。しかし、宗教的にははっきりとした善悪の線引きはありません。その中で、むしろ宗教的に悪人と言われ、ここで極重悪人と言われる存在は、自分が善人だと思って疑わない、そういう態度の人なのでしょう。

私たちの大部分は所謂犯罪者と呼ばれるような人ではありません。善良な一市民だと自分もそう思い、人からもそのように認められたいと願っている人が大部分でしょう。そして、毎日の悲惨な事件にうんざりして、犯人を決して許さないと指弾します。宗教的にはそういう我々の姿が極重悪人なのです。

仏さまの眼から見れば、世の中の善人も悪人も共に深い所で浄土を表し、本願を表している大事な人なのです。しかし、私たちには仏さまに背いて、自分の物差しを振りかざして他人の価値を決め、他人を排除してしまいます。

仏さまに背いている私たちも、実は、仏さまから大切な人よと呼びかけられ、わが身の本当の姿に目覚めてほしいと願われ続けているのです。極重悪人とはそのような存在なのではないでしょうか。

022おかげさま

安田多恵子

インタビュー・スピーチ・挨拶などで度々、「おかげさまをもちまして…」とか「おかげさまで…」と耳にすることがあります。みなさんも普段にこの言葉を使われていると思います。

この「おかげさま」という言葉ですが、誰に、何に対して「おかげさまな」のでしょうか?国語辞典で調べてみますと、一つには、相手の好意や世話に対する感謝の気持ち、人から受けた力添えや恩恵の言葉であり、それともう一つには、神仏の加護、感謝という、二つの意味が書かれておりました。

私たちは、自分一人の力でやってきたつもりが、失敗や困難に陥って自分の限界を知り、周りの方々の好意や恩恵によって支えられていたことに気づかされた時、「おかげさま」という言葉で感謝を表し伝えます。ところが、年々重ねていくうちに、一つ目の意味だけでなく、より深い二つ目の意味も含んだ「おかげさま」を言っている自分に気づかされます。

幼い頃を思い出しますと、近所のおばさんや寺にみえる方の口からは、「おかげさんと元気に…」とか「こうしておかげさんとお参りに来られました」とか、「おかげさま」の言葉をいつも耳にしていたように思いますが、近頃はどうでしょうか?昔の人はいつもそのことを身近に感じて生活をされていたように思います。

真宗の教えを分かろうとして難しい言葉や、知識を得ようとし、また知ったような錯覚をしていることが多い私なのですが、阿弥陀様という大きな加護に気づかされた時、頭が下がり、「おかげさま」や「南無阿弥陀仏」のお念仏が口から出るのでしょう。それが信心のような気がします。難しい言葉や知識ではなく、まずは自分自身が「おかげさま」に気づかされれば、と。

021ハンセン病回復者の方

鈴木勘吾

今年4月、岡山県の邑久(おく)光明園というハンセン病回復者の方々が住む、療養所へ行ってきました。副園長さんよりお話を聞かせていただきましたが、回復者の方々のご苦労は筆舌に尽くしがたく、数分、数枚の原稿では伝えきれません。ただお話にうつむきがちに聞かせていただくばかりでした。

その終わりの言葉に驚かされました。

「ここにお住いの方々は、哀れむべき人々ではなく、病気による後遺症に悩まされ、差別によって虐げられ翻弄されながらも、地域の偏見や、国の政策とも粘り強く闘い、この地で強く生き抜いてこられたのです」

どんな顔をして療養所を訪問すればいいのかと考えていた私は、少し混乱しました。私は、自分が何なのか、何しにここへ来たのかと、変に意気込んでいました。先入観なしに、素直に来られなかった自分を見てしまい、戸惑いました。

後に、回復者の方々との交流会でも、後遺症も少なく、社会生活に復帰された方のお話を聞かされたときも、驚くことが多かったのですが、何人かの方に共通することは、「仕事を通じて親しくなれば、身の上話になる。すると、いつ病気のことが知られてしまうのか怖かった」と一様に話されることです。病気は快復していても、イメージが悪く、ばれればここには居られないと、感じておられました。

「隣のオッチャンになりたい」

こんな当たり前のことが叶わないことに、疑問を持ち、何かできないかと、思案してしまいます。

傍らで苦しんでいる人がいるのを知りながら、自分の心の平安を得ることが宗教の救いでしょうか。私とハンセン病問題との出会いは偶然かもしれませんが、私に宗教とは何かを問いかける機縁として新しい出会いをいただきました。

020有無の邪見

伊東幸典

「霊はおるのかね?」

唐突にこんな質問を受けたことがあります。私たちは、何でもかんでも善か悪か、白か黒か、決めなければならないと思いがちです。どちらでもないという曖昧さは好みません。その時の話を要約するとこんな具合です。

出かけようと思って戸締りを済ませたところ、突然、冷たい風が部屋の中を吹き抜けた。ゾクッとして、これは弟の霊だと思った。実は数か月前、弟がガンで死んだのだが、自身の健康状態がよくないことを察して葬儀の知らせをもらえず、百か日法要が済んでから連絡を受けた。葬儀に出席して、最後のお別れをしたかったができなかった。だから、霊となって現れたと思った。

そもそも霊とは何なのでしょう。言葉の意味を尋ねると、「形ある肉体とは別の冷たく目に見えない精神。また、死者の身体から抜け出した魂」とあります。目に見えないものということは、霊が存在するか否かは確かめようがありません。

『正信偈』には、龍樹大士出於世(りゅうじゅたいじしゅっとせ) 悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)(真宗聖典205頁)とありますが、仏教では、「有無の邪見」といって、「有るというのも無いというのも、人間の間違った見解であって、偏見・独断である」と教えられています。親鸞聖人も龍樹菩薩が示されたこの考え方を高く評価しておられるのです。

亡き弟のことを強く思えばこそ、霊の存在を確かめたくなったということが質問の本意でありました。でも、霊の有無など、どうでもよいことです。「弟さんが亡くなって、寂しい」という悲しい気持ちでいっぱいだということがよく分かりましたから。

019人間に帰ろう-ハンセン病問題-

加藤淳

いよいよ来年、真宗本廟において宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されます。法要中の、4月12日から14日までの三日間、「第8回真宗大谷派ハンセン病問題全国療養所交流集会」が企画されています。

「人間に帰ろう-しんらんさんと考えるハンセン病問題-」というテーマで交流集会が開催されます。なぜ大谷派がハンセン病問題に取り組むのかといえば、「無批判に国政政策に追従して隔離を推進した」「『らい予防法』がもっている人権侵害を見抜けなかった」「その中で私たちは慰問布教という形での現状肯定、あるいは自己弁護をしてきた」という三つの誤りを犯してきたからです。

『らい予防法』が廃止される1996年まで、国は隔離政策をとってきたこともあり、ハンセン病は恐ろしい病気であるなどの誤った理解がごく最近までされてきました。

親鸞聖人は、私たちに先立って、人間であることの根拠を明らかにされた人です。また、阿弥陀のはたらきを私たちにまで伝えてくださった人でもあります。

では、阿弥陀のはたらきを感じ取ることはどういうことかを例えて言うなら、外で風が吹いているとします。風そのものには、臭いも色もありませんから、風を直接確認することはできません。風が吹いていることは、外の木々が揺れていたり、窓のカーテンが揺れることによって、また、私たちの体に当たる感覚によって風を感じ取ることができます。風と同じように、阿弥陀の教えに生きられた方の生活を見ることによって、阿弥陀を感じ取ることができると思います。

ハンセン病回復者で歌手である宮里新一さんのコンサートで、交流集会が始まります。「ハンセン病回復者は、社会の中で肩身の狭い思いをして生きてきたんです。そういう人たちの思いを代弁したのが自分の歌なのです」との歌に込められた宮里さんの生き方にも触れていきたいと思います。

ハンセン病を患ってこられた方々の生の声を聞くことによって、つい最近まで隔離を支えるような社会を生きてきたということに気付かせてもらえるのです。そしてまた、都合の悪いものを排除しようとする自分自身がそういう社会を支えているのだと教えていただきました。

ハンセン病問題を学んでいくことが、女性差別、外国人差別、障害者差別など、あらゆる差別を自覚させていただく手掛かりに繋がれば幸いです。

018掲示板設置によせて

大賀光範

このたび、淨圓寺の入り口にアルミ製の掲示板をたてていただきました。そこで、さっそくドイツの文豪ゲーテの言葉である「人間の過ちこそが、人間を本当に愛すべきものにする」という言葉を掲示しました。

掲示板の設置は前住職のころからの懸案でした。しかし、門前は人通りが少ないこともあり、世話方さん手製の掲示板が村の中の5ヶ所に設置してありました。行事の案内などはいつもそこに掲示しておりましたが、老朽化などで壊れたものも出てきたため、新たな掲示板を設置していただいたのです。

掲示した言葉については、すぐに反応が出てきました。「難しい」「何を言いたいのか分からない」という声でした。これらは想定内の反応でしたので、これからいっしょに考えていきましょうとお話したのですが、ただ一つ思いもよらない声が出てきました。それは、「最後に書いてある“ゲーテ”の意味が分からない」という声でした。世界的文豪であるゲーテだからこそ、掲示板の最初の言葉として相応しいと思い選んだ言葉でしたが、そのゲーテを知らない人がいることには、思いが至りませんでした。

考えてみれば、高度経済成長を支えた世代は、戦争で荒廃した国の復興のために、身を這いつくばらせて働かねば、三度の食事も満足に取れないような、たいへんなご苦労を経験された世代です。芸術などの文化に心を寄せる暇もなく仕事をしてくださったからこそ、高度経済成長を成しえたといってもいいのでしょう。戦後60余年を過ぎていますが、文化的には戦後を引きずっているのではないかと感じました。

このことから、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(真宗聖典533頁)といわれる言葉を思い出しました。毎日その日の生活に追われ、食いつなぐためには人をだましたり瞞(だま)したり、殺生をしなければならない。そういう生活を余儀なくされている者こそ自分自身であり、当然そこには、身を煩わし、心を悩ましてしか生きることのできない現実を、悲しみをもって語られている言葉でした。

私たちは、毎日身を煩わしい心を悩ませながら生きているため、言わなくてもいいことを言ってしまい、しなくてもいいことをしてしまいます。そういう過ちを犯す私だからこそ、如来は人間を「愛すべきもの」と見てくださるのではないでしょうか。

017法(ほ)の香(か)にそめて

池田真

先日、詩を作りました。そうしましたら『いのち輝き』(「念仏ブギ」)というCDを出した、佐々木賢祐(名古屋教区第1組)ご住職が曲にして歌ってくださいました。(聞いてください♪)

法の香にそめて

目には見えない あなたのすがた もう聞こえない あなたの声は ふれることない あなたの手のひら テレビを消したら いつもの場所に 目を閉じて 両手を合わす あなたの面影 心につむぐ あなたが遺した 今日の私を 法の香にそめて あなたと出遇う 私にとどけ いのちの願い 間違いないと 歩んだけれど リセットしたい ホントはごめんね 別れて知った 今 ありがとう あなたが遺した いのちのアドレス 法の香にそめて 信ずるままに 君へと届けよう いのちの輝き

「法の香にそめて」とは、朝夕のお勤めや御同朋(仏縁の友)との聞法・座談、そして仏法を推進された先人の生き方を憶ってつけました。

ご承知のように、親鸞聖人は『教行証文類』の末尾に「前に生まれるものは後のものを導き、後に生まれるものは前のもののあとを尋ね…」(真宗聖典401頁、現代語〔本願寺出版社〕)と、「先輩⇔後輩」のつながりの中で、浄土真宗の救い・成就を記しておられます。

多くの先人たちは、亡き「あなた」を機縁として、「両手を合わす」という「場所」をいただかれ、亡き人・教えに出会っていきました。そして、お勤めや聞法の中から阿弥陀の本願(願い)、浄土(いのちのアドレス)を明らかにされ、そして後輩である「君に」、「いのちの輝き」を「とどけて」くださいました。「いのち輝き」とは、仏と先輩・後輩という関係性に目覚めた先人、そう、親鸞聖人の生き方(推進)です。

昨今は、「直葬」や「無縁社会」と表現される無宗教や人間関係の希薄さの指摘がされています。それは、いわば自己中心的姿勢、仏を否定する延長上で、いつでも起きうる問題でありましょう。

先日、教区の座談会で、「仏・先祖に手を合わせない私が育てた子どもから無縁にされるのは当然やわ」という感想を聞かせてもらいました。私には「無縁を作っているのは誰ですか」という問いと同時に、古くして新しい因縁の道理を教えていただくことです。蒔いた種は芽が出て、同時に蒔かない種は芽が出ないでしょう。

いよいよ「テレビ」の情報や「間違いない」という私の物差しを照らし出す、仏言や生き方、人生の方向を「法の香に」(ちょっとずつ)いっしょに尋ねてまいりましょう。 合掌

016あじさいの花

日下部澄子

「今、ここにいる自分」をどう捉え、どう考えたらいいのでしょう?楽しい時、嬉しい時の「今、ここにいる自分」は手放しで認めますが、悲しい出来事に出会ったり、辛い思いをしなければならなかったりした時は、「こんなはずではなかった」「こんな自分ではないはず」と、いろいろな理由をつけて現実を受け入れることができません。済んだことを愚痴ったり、憎んだりして、過去の幸せな時を懐かしんだり、未来に目を向けることで、現実から遠ざかろうとし、当てもなく彷徨う自分がいます。

阿弥陀さまは「苦の原因は自分を知らないとことにある。少しは善いところもあるはずだと思っているのは大間違い。他人さまの言うことが聞けないのがあなたなのだ。だから、『法』が身にしみ込むまでしっかり聴聞し、本当の人間になってほしい」と、いつでもどこでも必ず、至らぬ私を暖かく包んで、いつも呼びかけていてくださっているのですね。

清澤満之氏は「絶対他力の大道」の中で、「自分とは一体何でしょうか、私どものはかり知ることのできない不可思議な力にはからわれて、今ここにこうして生かされているもの、これがすなわち自分であります。ただ不思議な「力」におまかせして生きている身であります…」(林暁宇氏の意訳)とおっしゃっています。

その同じ「力」にはからわれて、別院の境内の古木の下で嬉しげに咲き始めましたあじさい。あじさいは無数の花弁が集まって一輪となり、一輪の花が集まって一株の花となる。そして雨に打たれて美しくなる。目立って咲くことよりも、控えめに、大木の下で、見られたいとも思わず、ただひっそりと静かに咲いている。それなのに色はますます深まって美しく咲き、「いつくしみ」の心を放っているように思えます。

あじさいの花のように、さまざまなつながりの中で生かされているいのちを通して、与えられたままの自分を尊べるよう、お念仏申して学ばせていただきたいと思います。

015父の姿

岡本寛之

昨年3月に祖母の三回忌が勤まり、「これで七回忌までは法事を勤めなくてもよい」と思っていた矢先の10月に父が命終しました。私の怠け癖をよく分かっていた父でしたので、「気を抜くなよ」という無言のメッセージだったようにも感じられます。

父は糖尿病を患い、腎機能の低下による透析治療、脳梗塞や脳内出血による半身不随などの合併症を併発し、数年前から車椅子での生活を余儀なくされておりました。

その後は母の介護のもと、無事に日々の生活を送っておりましたが、昨年の夏頃から体調を崩し、数えの71歳で命終しました。

祖母が亡くなった時は生後半年で何も分からなかった長男も、父の死の際には3歳を迎え、今でも時折口にする「爺ちゃん死んじゃった」という言葉からも、彼なりに何かを感じ取ってくれているのではないかと思います。

さて、そんな父も私たちに色々な姿を見せてくれました。

ご門徒のみなさまいわく、「微笑みながらも威厳に満ちていた住職としての姿」。母いわく、「酒に酔って帰宅しては、家族を困らせた一人の人間としての姿」。また、子どもの頃から大好きな読売ジャイアンツが負けた日は機嫌が悪く、早々に布団に入り不貞寝するという子どもじみた姿など。

いろいろありましたが、今回は私が一番印象に残っている父の姿をお話させていただきたいと思います。晩年の父は車椅子の生活を送りながら、天気の良い日にはよく散歩に出かけていきました。言語障害も出ていましたので、唸るように声を発しながら外を指すことが散歩の意思表示です。散歩といっても、家族の者が車椅子を押していかなければなりません。天気の良すぎる日には同行を断ると、駄々をこねる父。こんなやり取りも日常茶飯事でした。外では地元の人たちが畑仕事などをしておられます。そんな方を見かけては麻痺の残る手を振り、声にならない声で挨拶を交わす父。私がよく思い出す父の姿です。

多くの方は、自分の身がそのような境遇に置かれますと、衰えた自分の姿を他人に見られたくないとのことから、他人との接触を避ける傾向にあると聞くことがあります。さらに言えば、病に冒された自分の姿を受け入れられず、こんなはずではないとの思いから内に閉じこもってしまうのかもしれません。

人として生まれたからには避けて通れないこととして、「生老病死」という四つの苦しみがあります。父は最後まで自分の置かれた境遇を受け入れ、最後まで普段と変わらぬ生活を望み、自分の全てをさらけ出して私たちに見せてくれました。全てを受け入れ、どんな姿の自分でも認めていく生き方の難しさを父の姿から学ばさせていただいた、そんな気がしております。