008 「酉の暦」

三浦 統

先日、新聞を見ておりましたら、「あの年も酉年だった平和の日」という俳句が掲載されていました。今から七十二年前、終戦を迎えた一九四五年もまた、今年と同じ酉年であったのです。

酉年といえば、親鸞聖人が、「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と、宗祖の主著であります『顕浄土真実教行証文類』にて、振り返られた年です。

建仁辛の酉の暦とは、西暦一二〇一年、今から八一六年前の酉年のことですが、その年、親鸞聖人は、二十年もの修行を積んだ比叡山を下りて、法然上人の元へ赴かれました。宗祖の生涯においての大転換が起こった年なのです。

その大転換とは、「雑行」、つまり、救われていくための様々な修行を棄てて、念仏の教えに我が身を聞き、本願によって救われていく道を歩み出されたということです。

善い行いを積み重ねて、立派な人間になって、救われようとするのではなく、そのような行いなど、何一つとして成し遂げることのできない私の在り方に目覚め、阿弥陀仏にお任せするよりほか救われる方法がない、本来の〈私の姿〉に出遇われたということでしょう。

当時宗祖は二十九歳でしたが、本願に帰すより他に助かる道がないという、この人間理解こそ、九十歳まで生きられた宗祖にとって、終生変わることのない人生の指針であったのです。

酉年であることは七十二年前と同じであっても、平和とはかけ離れ、様々に混迷を深める現代の私たちこそ、宗祖の人間理解、人生の歩み方に、私自身のあり方を学ぶべきではないでしょうか。その学びなしには、闇夜を打ち破る酉の鳴き声は聞こえてこないと思うのです。

(員弁組・覺通寺住職 二〇一七年四月下旬)

007 目覚めてこそ

藤本 愛吉

二十四歳のときでした。通信教育の大学のスクリーングという、直接授業を受けるなかで、「インド哲学史」の先生が教室に入ってこられ、念珠を手にして合掌され、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」…と、称えられました。驚きと畏怖、畏敬の念が起こりました。何かがその先生のところにはたらいている、いわば「生きて行(はた)らいている念仏」という感じがしました。畏れと憧れが入りまじった心が起こっていました。話された言葉は今も、私の人生の方向をさししめしてくれています。

授業で紹介されたタゴールの詩の一節、

咲く花の喜びは   花びらを落として実を結ぶ

急げ我が心よ    一日の終わらぬうちに

大いなる愛の中に  おまえを使い切れ

とか、後に送っていただいた信仰誌『大信海』の中の、

もしこの大空が愛に満ちているのでなかったら、誰がうごきはげみ生きることができようぞ

などの言葉は、今も新鮮に響いてきます。

青年期に『魂の出発』(リルケ)を促されたことの、かけがえのないこの出会いを「よくぞ、ようこそ」と憶い起こすことです。

(中勢二組・正寶寺住職 二〇一七年四月上旬)

006 生活におしえられる

河村 論

永代経(えいたいきょう)の季節になりました。この時期になりますと、全国各地のお寺でも永代経法要が勤められていることでしょう。さて、永代経法要の意味を考えてみますと、その文字の通り、経が永代にわたって護持されることを願われて勤められる法要だと思います。

では、その教えというものを考えてみますと、私たち真宗の教えに縁を持つ者においては、やはり念仏の教えなのでしょう。そこで改めて念仏ということを考えてみますと、最近の自分において流罪以後の宗祖の生涯ということに意識がいきます。流罪されるということは、宗祖が自ら歩まんとする念仏の仏道が、世間的にも、当時の仏教界においても否定されたことを意味しているのでしょう。そうした中で、先生である法然上人とも別れ、自分の仏道が揺るがされるような出来事であったのではないかと推測します。

私はちょうど二年前まで京都に住んでいました。当時は大学生でしたが、お盆やおとりこし・法要のある時は実家に帰省して手伝いをしていました。卒業して実家に帰り、今は法事などの法務をして、その中でご門徒さんとコミュニケーションを通して少しずつ親戚関係や、それぞれのお家の生活感というものに触れさせていただく機会が増えました。そうすると、それまでは目につかなかった一軒一軒の情景が少しずつ見えてきたように感じます。

さて、宗祖の流罪された話に戻りますと、宗祖も越後においても同じように様々なものを抱えている人の姿を通し、より人間ということを深く見つめられていったように思います。さらに言えば、そこに生活する人々から、様々なものを抱えつつも一日一日を生き抜いている現実を教えられたのではないでしょうか。そして、その人々の現実を通して、生き抜いていく力として念仏というものを感得されたのではないかと思います。そして、そこから宗祖と田舎の人々の間で生活という場を土台として研鑽され、法脈は受け継がれていき、今日の永代経として相続されてきているのではないかと思います。

宗祖は自身の著作の中で田舎の人々に関し、

いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、(中略)やすくこころえさせんとて、

(『一念多念文意』聖典・五四六頁)

と示して、わかりやすく、念仏の教えが伝わるように著した苦労というものが感じられます。私も別院の定例布教を先日初めておこないましたが、人に伝えるということの難しさをとても感じます。その中で言葉を砕いて接していく関係、砕ききるまで消化する苦労というものに、自分自身が尻を叩かれるように、激励されているように思われます。そのようなことを永代経ということを通して改めて感じさせられたことです。

(南勢二組・教楽寺衆徒 二〇一七年三月下旬)

005 「子供時代のあとに」

箕浦暁雄

イシグロ・カズオの小説『わたしを離さないで』のなかに、臓器提供するためだけに生まれてきた子供たちが全寮生活で特別の教育を受けて育てられ、大人になっていく世界が描かれています。寮生活が終わると別の場所で生活をして、やがては臓器提供者の介護に就き、後に自らも提供が始まります。小説のなかでは、だいたい四度の提供で命を終えていくという状況が描かれます。たいへん不条理な世界です。不条理でありながら、寮生活はどこか牧歌的に描かれます。子供たちはなんとなく疑問に思いながらも、その状況に甘んじ、本当はどうなりたいのかはっきりしません。人は不条理な境遇に慣れる。何に対しても慣れてしまう。不安になりながらなんとなく受け入れてしまう。こんな状況が完璧なまでに用意周到に描かれる小説です。

自分がいまどんな位置に立っているのかはっきりしない。将来もはっきりしない。それがいつのまにかゆっくりではあるけれども、自分の位置が徐々にはっきりしていく、だんだん将来がはっきりする。〈子供時代〉とはそういうものだと思います。

仏教徒たちは長い年月の間に仏陀の伝記をたくさんつくりました。仏陀の伝記には青年時代の姿すなわちゴータマ・シッダールタの姿が描かれています。国王であり父親であったシュッドーダナは、息子ゴータマが青年時代特有の悩みを持たないように〈保護〉して育てます。仏伝作者たちは、人の生涯のなかで〈子供時代〉というものが持つ意味をよくわかっていたと思います。一方、作家イシグロ・カズオは、人間というものを鋭く観察して、まるで仏教の課題が定まってくる背景にあるものをよく知っていたと言えるほどに、実に巧みに〈子供時代〉を描き出すことに成功しています。

ゴータマは苦悩する人がいかにして豊かに歩むことができるかを問いました。これが仏教の根本課題です。本当は何をしたいのか明確でない。かといって何も意思がなく、将来像がないわけでもない。何かぼんやりとした不安があり、そんな状況を受け入れながら、その境遇に慣れてしまう。我々の日常のこうした状況がまずあって、そのなかからいかに歩むべきなのかという問いが生まれてくるのです。

うちの子供たちは、仮面ライダー変身ベルトをつけて跳び蹴りし、長い棒をふりまわし、ものをぶん投げて、毎日怒られながら、皆に見守られています。こんな姿を通して、人が歩んでいくことの難しさについて考えています。

(桑名組・專明寺・住職 二〇一七年三月上旬)

004 バーバは何処へ行ったんですか

藤波 淳

中陰参りでの話です。御文を頂いた後で、少し話をさせていただき、門徒さんに「何か聞きたいことありませんか」と話し掛けるのですが、なかなか口を開いてはもらえません。

三・七日なのかの時でした。小学生が手を挙げたので、ハッとしました。何を質問されるのか、戸惑ってしまいました。大人なら大体の見当は付きますが、子供の質問は想像がつきません。ドキドキしながら聞きましたら、その子が「バーバは何処へ行ったんですか? 」と質問され、一瞬止まってしまいました。どう答えたらいいのか、頭の中が混乱して解りません。

私は「私にも良く解りません。でも、私はこう思います。君の中にバーバはずっといると思いますよ、どこへも行っていないと思いますよ。君を今までみたいに応援し続けていますよ」と言ってから、本当にこれで良かったのかなと思いながら、その時、たまたま鞄の中に相田みつをさんの詩集を持っていましたので、『命のバトン』という詩を読ませていただきました。

その子に「この詩を覚えておいて下さいね。私の命は私だけのものではありませんよ。たくさんのご先祖が君を応援し続けてるんですよ。だから命は大切なんです。自分の命を大切にできる人は、他人の命も大切にできますよ。苦しくなったり、悩みごとがあったりした時、一人で抱え込まないで、君を包んでくれてる人に話してください。当然バーバにもですよ。」と申しました。子供さんの一言から、住職の仕事の重さを心から感じ取ったご法事でありました。

(三重組・誓海寺住職 二〇一七年二月下旬)

003 いただきます

平塚明子

私は三年ほど前に大谷派僧侶の方と結婚し、在家からお寺に嫁がせていただいたのですが、お寺に嫁ぐまで、終末期医療の現場で管理栄養士として働いていました。

私が担当させていただいていた無菌病棟の患者さん方は、余命数か月と医師から診断された方がほとんどで、みなさん様々な症状、事情でたいへんな方たちばかりでした。

それにもかかわらず、私が「お食事どうですか?」と伺いにいくと、いつも「ほんとうにありがたい、ありがたい、申し訳ない」とおっしゃり、感謝してくださる一人のお婆ちゃんがいらっしゃいました。

抗癌剤治療のため、ほとんど食べる事ができない状況にもかかわらず、病室で一人「いただきます」と手を合わせられていた事を思い出します。そのお婆ちゃんは、癌との闘いに加えて、私が日々当たり前の如くいただいている食事をすることさえ困難な状況にも関わらず、病院の決して美味しいとは言えない食事に対して「ありがたい」と頭を下げてみえたのです。

そんなお婆ちゃんの姿に対して、毎食「いただきます」と手を合せるどころか、評判のいいお店を探して行くくせに、ダイエットのために、何のためらいもなくご飯を残している私がいました。当時の私に、命をいただくという姿勢はどこにもなく、どこまでも自分のことしか考えていませんでした。

真宗大谷派では、食前の言葉として

み光のもと われ今幸いに

この浄き食をうく いただきます

と唱和します。「われ今幸いに」とは、食事をいただけることは決して当たり前ではなく、数えきれないくらいたくさんの命のおかげでいただくことができると感謝するということだと思います。

また「この浄き食」とは、食べられなければまだ生きられた命が、私の犠牲となっていることをしっかりと自覚していただくという意味ではないかと思います。

現代の日本は飽食の時代です。お腹が減ることはあっても、飢えることはまずありません。本当にありがたいことなのですが、私はこの恵まれた状況に、心からありがたいと思っているかと言うと嘘になってしまいます。私たち人間は柔軟性があり、様々な事に対応して生きていく事ができます。様々な環境、条件に対応できるのですが、逆に言えばどんなにありがたいことであっても、すぐに「あたりまえ」に感じてしまうのが私たちだと思います。

幼いころ、に実家の母に教えてもらった、ご飯の前には「いただきます」、ご飯の後には「ごちそうさまでした」と声に出す本当の意味を、二〇年以上たってから、「いただきます」「ごちそうさま」と、合掌しながら一言つぶやくお婆ちゃんのお姿から教えていただいた気がします。

(三講組・養泉寺衆徒 二〇一七年二月上旬)

002 ご縁

伊藤達雄

「ご縁ですね!」

最近、挨拶のように交わされるこの言葉が耳の奥に留まるようになりました。

戦争終結の二年後に生まれ、十一歳の時、(小学生六年生に)伊勢湾台風という未曾有の自然災害に遭い、五千人余りの尊い命が奪われました。この数の中に、父親も、仲良しだった友達の数も含まれています。その後も、事故・災害・自死など、様々な別れがありました。そのような体験から、「死」は自分の意思に関係なく襲って来ると実感しております。

しかし、全ての事象は「ご縁」の催しにより起きる事だと解っていたように思っていたのですが、六十八歳という年齢から来るものなのか、また、死への恐怖から来るものなのか、人ごとではないと、今更ながらに気付かされております。

人間はなぜ生まれて来たのだろうか。そして、何の為に生きていくのだろうか。そんな疑問に答えられたのが仏陀だと教えて頂きました。

生まれてから社会に出る為の知識・教養を享け、成人し、社会人(つまり人生の修行者)として四十数年働き、停年を迎え残りの人生(終活人生)を十二分に「実りある時間」として過ごしたいと思っております。

そんな思いに応えてくださったのは、そうです! 親鸞聖人との出遇いだったのです。このご縁無くして現在の充実感は得られなかったと思えます。

聖人の深い、深い御教えの一つ一つを理解することはなかなか難しいのですが、響いたお言葉に日々感動しております。

「ご縁のままに」と申しますと「どれだけ努力しても無駄だ」と考えることもできるのですが、蓮如上人の『白骨の御文』には、無常は私達が「後生の一大事」つまり人生の一大事を抱えている身であることに、気付かせてくださる「ご縁」であることを教えられています。

また、曽我量深先生の講義集の中には、

人間の世界は、仏道修行すべき尊い世界である。我等の世界は、生死(しょうじ)無常だから、仏道修行に適している

(『曽我量深講義集六』六十八頁)

とも書かれてありました。

親鸞聖人の「念仏のみぞまこと」の言葉をかみしめ、これからも聞法に励みたく思います。

合掌

(長島組・深行寺門徒 二〇一七年一月下旬)

001 「道徳はいくつになるぞ」

田代賢治

明けましておめでとうございます。

本年も三重教区そして桑名別院本統寺をどうぞよろしくお願い申し上げます。

また、昨年末にはたくさんの方々が報恩講をお荘厳くださいましたこと心から御礼を申し上げます。

さて『蓮如上人御一代記聞書』の冒頭にありますように

勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし (後略)」

(『真宗聖典』八五四頁)

と言われたことはよく知られたエピソードです。

この言葉の主意は、他力の念仏とその御たすけの後の感謝の念仏の一念を、臨終まで保つことの大切さを伝えられたものだと言われています。

「道徳」のところを自分の名前に置きかえて「おまえは、いくつになるぞ」と聞かれると、やはりドキッとするのは私だけでしょうか。虚しくムダな日々を、時間を過ごしているのではないかという、後ろめたさがきっとそうさせるのでしょう。

そのことに気づかされたならば、与えられた時間と日々をどう過ごすのか、それが問われてきます。

「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」との善知識からのおさとしを、阿弥陀仏からのご催促と受けて、これからの一年を過ごしてまいりたいと思うことであります。

南無阿弥陀仏。

(三重教務所長 二〇一七年一月上旬)