023 悲しみを生きる力に – 葬儀という場に思う –

訓覇 浩

二〇一八年も残すところあとひと月となりました。この時期になると、この一年で浄土に還られたご同行の方々のお顔が、あらためて思い起こされます。今年は特に私も、身近なものの死に直面することになりましたので、なおさらです。

そこで今回は私たちが、死というものと向き合う大切な場となる「葬儀」という場について、少しく思いを巡らせてみたいと思います。

人の死に接したとき私たちは、亡くなった人が自分と縁が深い人であればあるほど

六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず

(『真宗聖典』八四二頁)

という「白骨の御文」の言葉にも示されるような大きな無力感、もっと何かその人に対してできたことがあったのではないかという後悔、そしてもうその人と言葉も交わすことができないという絶望感など苦しくつらい感情、そしてなにより深い悲しみに襲われます。それらは、平生のこころでは耐え難い、逃げ出したくなるようなこころです。

その悲しみのこころに立つことをせまってくるのが、私は、葬儀の場であると思います。

弔問に訪れる人はみな、亡くなった人の一生涯に思いをはせ、その人と自分との縁をこころに刻みなおします。その一人ひとりの営みは、葬儀の場を一層沈痛なものとします。

しかし、肉体が滅した事実に直面し、その悲しみをとおさなければ、その人と出会えたことのもつ本当の意味、本当の慶びは分からなかったのだということに、そこに集う人はやがて気づいていきます。亡くなったものが、法身、法の身となって、これからは私として生きてくれる他者、すなわち他己となって一人ひとりの中に誕生するからです。葬儀という場は、そのような深い、仏さまの願いがはたらく場であると思います。

悲しみの深さが そのひとの深さだ

その深みから呼びかけられて 私は歩く

本山が発行しているリーフレット「通夜・葬儀のこころ」にある言葉です。

葬儀の場をおおう悲しみのこころは、先に浄土に還った人の、人として生きたことそのもののもつ尊さが、与えてくれるものだと思います。その悲しみのこころを抱き続けて生きる、先に浄土に還った人の願いを生きる、そういう一人ひとりを誕生させてくれる力、場が葬儀というものであると実感しております。

(二〇一八年十二月上旬 三重組・金藏寺住職)