021 仏さまはいらっしゃるか、否か?

田代 俊孝

仏さまはいらっしゃるのか、いらっしゃらないのか、皆さんはどう思います

か。私は幼いころ日曜学校で「みほとけは まなこをとじてみなよべば さやかにいます わがまえに」という仏教賛歌を習いました。その時、いつも思っていました。眼を閉じたら何も見えないではないかと。

親鸞聖人は、『唯信鈔文意』という書物の中で、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえり。

(『真宗聖典』五五四頁)

とおっしゃっています。

色も形もなければ、どうその存在を証明するのか。でも、色や形がなくとも、あるとか、ないとか言っているものがあります。例えば、風です。風は色も形もありませ

んが、風があるとか、ないとかと言っていますね。

木がそよそよと揺れたり、戸がゴトゴトと音を立てれば、風があると言いますね。つまり、風のはたらきを通して風の存在を認識しているのです。仏さまも同じです。智慧とか慈悲というはたらきがあるのです。智慧とは、私が凡夫であることを知らせてくれるはたらきです。「智慧の光明」と光にたとえられます。それによって私は「無明の闇」を知らされるのです。

慈悲とは、苦を抜き楽を与えるというはたらきです。つまり、救ってくれるはたらきです。これも「摂取の心光」と光にたとえられます。智慧を得ることによって、迷いのもとである自身の勝手な思い込みが破られ、苦が除かれ、楽が得られるのです。

もともと、仏さまの根本は実体がないのです。だから、「如」つまり、「ごとし」と読まれる漢字で示されます。一如とも真如ともいいます。これを法性法身といいます。

その如からやって来る、はたらきかけてくるのです。だから、「如来」というのです。

『唯信鈔文意』に

この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして

(『真宗聖典』五五四頁)

と言われますように、具体的な形を持ったものによって、私にはたらきかけてくるのです。それが願いとしての形をもった阿弥陀如来であり、さらにその阿弥陀の無数の分身が諸仏です。阿弥陀とは一切の諸仏の智慧を集めたものですし、逆に、ガンジス河の砂の数のごとくの無数の智慧の形が諸仏です。諸仏とは、私を目覚めさせてくれるはたらきを持つものすべてです。

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛)

良寛は散っていく桜の花びらに仏を見ているのです。

ノートルダム洗心女子大の渡辺和子先生は「置かれた場所で咲く花に」と言われます。場所を選べない花が置かれた場所で精いっぱい咲いています。その花に自分の生きざまを学んでおられます。

金沢美術工芸大学の故高光一也先生は「仏の方を向いても仏はいない 汚い自分をみると仏に遇える」といわれました。自分で自分は見えません。汚い自分を自覚するということは、すでに照らしてくれる仏に出遇っているのです。

また、先立つ念仏者、私にこの道を教えてくれた亡き人もみんな諸仏です。気づけば私は諸仏のまっただ中にいたのです。

しかし、仏の存在にうなずけない人がいます。それは、光の中にいながらも、光が感じられない人です。それを仏智疑惑といいます。学ぶ心根のない人、聞かない人、聞けない人、それに「賢い人」です。賢い人は「知っている。知っている」と言って聞く耳を持っていません。そこにバリアがあります。そのバリアを、養老孟司さんが「バカの壁」とおっしゃったのです。

私が法を聞くところに「智慧の光明」としてはかりない無数の阿弥陀が来たり現れるのです。阿弥陀のはたらきを感じたとき、仏さまがましますと、その存在にうなずけるのです。

(員弁組行順寺住職 二〇一七年十一月上旬)