013 「お寺」という場所

白木 俊正

最近、自坊の役員会の席である門徒さんから言われた事がありました

「住職、お寺でなにか催し物でもしたらどうかな?」

この門徒さんは、これから参詣の方が減っていくことを心配されて、私にご意見を下さったのです。私は住職になって四年程経ちますが、その前年に本堂を立て直させて頂きました。そういった経緯もあり、門徒の方々には〝お寺にたくさんの人に足を運んでもらいたい〟という願いがあるのだと思います。

近年ではお寺に興味を持ってもらう為に、本堂でバザーやライブ、落語といった様々なイベントを開催している寺院が増えているようです。確かにお寺に縁遠くなっている方を、お寺に気軽に来ていただけるきっかけとして、大切な機縁であると思います。

けれどただ、集まってそれだけでは終わってしまっては、お寺の教えを聞くところ、所謂、聞法道場としての場所の本来のあるべき姿が失われてしまうのではないでしょうか。

蓮如上人は『御文』の中で、お寺の御命日のお参り(寄合)について

そもそも毎月両度の寄合の由来は、なにのためぞというに、さらに他のことにあらず、自身の往生極楽の、信心獲得のためなるがゆえなり。

さらに、

ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒飯茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり

(『真宗聖典』八二八~八二九頁)

と当時の状況を伝えておられます。

この蓮如上人の『御文』のおことばから、お寺に来ても飲み食いだけして帰ってしまうのではなく、自分自身の在り方が聞法をして顕かにされていく為にお寺にお参りするのだ、と教えて頂いているように思います。つまり、お寺で開く催し物も教えを聞いていただくための重要なきっかけではあります。けれどそれだけにとどまらず、聞法の場として、お寺に出遇っていただいてこそ、様々なイベントの意味も、さらには「お寺」の存在意義が、見いだせるのでは、ないでしょうか。

最後に、今回、ある門徒さんの一言から「お寺」の住職として、どのような場所にしていくのか、新たに自分自身の問いをいただけたように思います。それは、難しい問いではありますが、反面、住職にとって幸いなことです。この時代に私達「お寺」がどのような場所や時間を皆様に提供していけるのか、蓮如上人のお悩みも、現代の私達に通ずるものがあると思います。これからの時代に、またそこに生きる人々に合った「お寺」の在り方を今日も楽しく悩んでいきたいと思います。

(二〇一八年七月上旬 長嶋組・了清寺住職)