011 「心配」から「応援」へ

中川 和子

近年、墓終いやお内仏の縮小化などが増え、終活が話題になっています。これは人ごとではなく、自分自身や自分の家族のことを考えると我がごととして重大な心配事です。多くの方がよく言われることは「子どもや孫たちに迷惑をかけたくない」「子どもたちにちゃんと始末していってくれと言われる」などです。私は、現在四十代ですが両親や祖父母もみんな亡くなり、何年も遺品整理をしています。一人娘ということもあり、お墓やお内仏のお華立て、年忌法要なども一人でやりくりしています。大変といえば大変なことなので、私自身も自分の子どもたちに同じことをさせるのが心苦しく、自分の荷物整理も考えてしまうというのが本音です。

中日新聞のくらし欄の「障害者は四つ葉のクローバー」というコーナーに記事を書いておられる伊是名夏子さんという方がいらっしゃいます。車いす生活で骨の折れやすい障害をもつ彼女が、進学時には自分の両親や周囲の人たちに心配や反対をされ、結婚や出産時には夫の両親や周りの親戚から「大変よ」「無理よ」と心配と猛反対をされたといいます。心配してくれる気持ちは有難いことなのですが、心配をされる本人はとても悲しくてつらい思いをしたということでした。親が子どもを心配するのは至極あたりまえのことです。それはそのとおりなのですが、実際は、心配だけでなく「話しを聞いて、助けてくれる」ことや応援が力になったとお話されていました。時には私たちの心配が、反って他者を生きづらくさせていることもあるのかもしれません。

社会学者の岡野八代さんは、人は本来「依存的存在」であることを「原初の依存」と表現されています。人に迷惑をかけること、家族のお世話になることは、既に私たちの存在自体に内在していることなのでしょう。しかし、現実に私たちが生活している中では、一般的に障害者や高齢者、子どもなどケアが必要な人を社会に参入させてあげるという構造が透けてみえます。それは、「原初の依存」を忘却した上にのみ成り立つことだと岡野さんはおっしゃっています。私たちは誰もが依存的存在です。常に「助ける」自分に執着してしまいますが、「助け合い」が大事なことだと伊是名さんは言われています。人と人の関係は、上も下も、一方的なものでもなく、本来、たいらなものなのでしょう。

親鸞聖人は仏さんは私たち全てを包摂して救う、摂取不捨のハタラキと教えてくださっています。そのハタラキに中々おまかせできない私たちなのですが、「如来の本願力に乗托すれば」自然なこととして「助けられる私」を認め、あるがままの他者を認めて応援できる世界がひらかれてくるように思うのです。

(二〇一八年六月上旬 三重組・常願寺住職)