021 薪能を観て

渡辺浩昌

先日、名古屋にて薪能を観劇しましたが、以前にも歌舞伎は観たことがあり、同じように分かりにくいものかと思っていました。しかし、その能楽がはじまる前に「分かろうとしないで下さい。感じて下さい」という説明がありました。

演目は『船弁慶』でしたが、観ていると、鼓、太鼓、笛等の楽器、そして謡(うたい)の発声、更には舞と大変迫力のあるものであり、本来変化するはずのない能面の表情がそれらの楽器等によって様々に変わるのです。語られる言葉は分かりませんでしたが、表現しようとするものが目や耳、肌を通して伝わってきました。事前の説明にあったように、日本の文化は頭で分かろうとするものではなく、感じるものかと思いました。

後日、名古屋にある能の歴史や伝統などを伝える能楽堂で多くの能面を見学する機会を得ましたが、その中でも『姥捨て山』を演じる時に使用する姥の面に心を惹かれました。その表情は微笑んでいるようにも見え、悲しんでいるようにも見え、老人ホームに入っている私の九七歳の母親の顔にも似ていました。能面とは見る者自身の心を写し出すものかもしれません。

ある本には、「姥捨て山」の伝説は単に老婆を捨てるということだけでなく、人間が生きていく上で作らざるを得ない罪業性を象徴していると書いてありました。

他の能楽は観ていないので分かりませんが、能楽とは古来より人間が生きる上での歓び、悲しみを多くの人々に表現してきた歴史をもつものでないかと思いました。

昨今はかつてない仏像ブームともいわれ、京都やら奈良のお寺へ足を運ぶ人が多くなっているといわれます。ひょっとしたら、仏像、菩薩像に見失いがちな自分自身を取り戻そう、感じ取ろうとしているのかもしれません。

(員弁組・西願寺前住職 二〇一五年十一月上旬)