012 お寺の掲示板

お寺の掲示板

加藤 文子

私の住んでいるお寺は田園の広がるのどかなところです。忙しく通り過ぎる場所ではなく、小学生の集合場所であったり、小さな子どもさんの遊び場であったり、犬の散歩の通り道であったり、わりとのんびりとできるところに伝道掲示板はあります。

「今回の言葉はよかったよ」「考えると難しいなあ」などと声をかけてくださる方、読んでもすぐに忘れてしまうから書いておこうと家に紙と鉛筆を取りに帰られる方など、いろんな方が読んでくださっています。ある朝「おばちゃん、全然変わってないね」と六年生の男の子が私に声をかけてきました。「あら、そう?」と喜ぼうとしたとき、変わらないのは掲示板の言葉だと気が付きました。そういえば、ほぼ一か月掲示板の言葉はそのままになっていました。私の都合で書いている掲示板でも、読んでくださっている人がいることを改めて知らされました。

 

努力して後悔した人を見たことがない

練習して下手になる人もいない

勉強して馬鹿になる人もいない

何かをして変わった人はいても、何もしないで変わった人はいない

 

お子さんが自信を無くされて、毎日励まし続けておられたお母さんから、掲示板の言葉に元気をもらったとお礼を言われたこともありました。

生きているということは良い事ばかりではないのですが、掲示板を見てくださる方に少しでも元気が与えられればいいなと思います。

掲示板を書いている私も当然不調になり、何もしたくないときもありました。そんなとき友達が

 

笑顔に勝る化粧なし

 

と掲示板に書いて励ましてくれました。

 

言葉には温度がある

 

という言葉を書いたときは、何気なく使っている一つの言葉の持っている力の大きさを感じました。

二月の初旬、私の誕生日に父が亡くなりました。徐々に弱っていく父に対し、ただ見守ることしかできませんでした。老いて、病んでいる姿を見るたびに、「一日でも長く生きてほしい」という願いと「治らないなら仕方がない」という気持ちで看病してきました。

 

まわりに求めていた やさしさを

私は誰かに与えたことがあるだろうか

自分の苦しさを思うばかりで

人の苦しさを思いやることがあるだろうか

東井義雄

 

その時に東井義雄さんの詩に出逢い、お寺の掲示板に書きました。今まで私の身に起こった面倒なことを「仕方がない」で片づけてしまい、見ないように聞かないように、時として自分中心で生きてきましたが、父の死を通してこの言葉の意味を、身をもって受け止めることができ、私の考えと違う人とも共に生きているということを感じさせていただきました。

来年から私の誕生日は父の命日にもなりました。命日はいのちの日と書きます。「いのちの日」、いのちを考える日です。私の受け止めた念仏を掲示板の言葉を通して表現できたらと思います。

(三重組・盛願寺坊守 二〇一六年六月下旬)