002 心を映す鏡

山口晃生

皆さんは鏡をよくご覧になりますか。 鏡には「姿を映す鏡」と、もう一つ「心を映す鏡」があるようです。

私事で恐縮ですが、四代前の先祖に「大高(おおだか)兵蔵(ひょうぞう)」という人物がおりました。幼少の頃から武芸を好み、十八歳の時、江戸に出て「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)」を、更に「直心影流(じきしんかげりゅう)」を極め、免許皆伝となり、三十歳の時、故郷(こきょう)に帰り道場を開きました。集まる門人、三百有余人を数えたと伝え聞いております。

その「直心影流兵法免許」表紙の裏に「丸に明鏡(めいきょう)」と書いてあります。又、古い『真宗聖典』表紙の裏には本物の「鏡」が貼り付けられ、しかも対面するように次のページに「心」と書かれています。この二つの鏡、共通点があるようなのですが、一体どんな意味があるのでしょうか。

「二河白道(にがびゃくどう)の喩え」で有名な 善導大師は、「経教(きょうぎょう)はこれを喩とうるに鏡の如し、しばしば読み しばしば尋ぬれば、 智(ち)慧(え)開(かい)発(ほつ)す」即ち お経に説かれている仏さまの教えは、喩えるなら鏡のようなものだと言うのです。

鏡はその前に立つものを偽りなく映すように、お経も何度も読み返しそのお心を尋ねるならば、偽りない心と身の事実をつぶさに映し出す。それがお経のはたらきであり、仏さまの智慧、と教えてくださいました。

お経はお釈迦さまの教えであります。それが七高僧により時を越え、国を越え、はるばる日本へと伝えられました。そして親鸞聖人は多くの経典の中から、

それ、真実の教を顕(あらわ)さば、即ち『大無量寿経』これなり。

(『真宗聖典』一五二頁)

と、『無量寿経』こそ、真(まこと)の教えであると受け取られました。

私たち真宗門徒は、親鸞聖人の教えを聞く事がいちばん大事な仕事であります。何度も何度も聞き続けることにより、鏡に映る自分の姿が見えるように、我が身が照らされ、我が心が顕かになる。それが明鏡であり鏡の意味ではないでしょうか。

釈尊の教え、親鸞聖人の教えこそ私の心を映し出す鏡であったのだと善導大師により気づかせていただきました。

(二〇一五年一月下半期 三重組・蓮行寺門徒)