001 家族葬から

田代賢治

あけましておめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、御同朋の皆さまのお力添えをたまわり、おかげさまで滞りなく厳修できましたこと、心より御礼を申し上げます。本年もまた、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、この時期にふさわしくない話になろうと思いますが、今の私にお話しできることは限られておるのであります。それは、私の母親、田代秀子が去る一一月一五日に九一歳でお浄土に還帰したことであります。歳が歳ですから、父母はもちろんのこと、連れ合いも早く亡くし、兄弟姉妹もすでに亡く、友人・知人も少なくなっており、「寂しい」というのがここ数年の口癖になっておりました。

それで私は、もう限られた人たちとだけの、いわゆる「家族葬」でも良いのでないかと、二つ年上の兄に相談いたしました。兄は大分県のお寺に入寺しておりまして、それを聞くなり「それは、いかんダメだ」と叱られました。それで私は、ハタと気づいたのであります。

身内だけの葬儀では、母親のいのちを狭い世界のものとして貶めることとなり、母親が如何に生き、どれだけの人たちと関わりを結んできたのか、彼女の生きた証として、彼女が最後に出来る社会的使命と責任なのだと思い直したのであります。したがって、広く「広め」をいたしました。「家族葬」は止めて、いわゆる「一般葬」に切りかえたのであります。

母親のことを思ってそうしようとしたのですが、実はそのことによって、結果的に喪主としての私自身の社会的使命と責任を果たすこととなりました。

ふだんから、いのちは「公け」のもの、いのちは「私有化」してはならない、いのちは広くて深いものと話しておりました私自身が、このていたらくでした。僧侶として慙愧するしかない、お恥ずかしいかぎりであります。

それを、母親が死をもって、私に教えてくれたことでありました。危うく大きな過ちを犯すところでした。

(三重教務所長 二〇一六年一月上旬)