034御遠忌の課題

大橋 宏雄

 来年三月に三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
 御遠忌法要は五〇年に一度、それは一生に一度の法要だと言ってよいのではないかと思います。その一生に一度の『時』と『場』としての法要が、私にとってどういうものであるのかを考える一つの手がかりとして、報恩講ということが思われます。

 報恩講はそれぞれの場で年に一度勤められますが、報恩講について「三六五日報恩講だ」ということを聞かせていただいたことがあります。それは報恩講が単に親鸞聖人の御命日の法要ということだけではないということを教えてくださっているのだと思います。

 その「三六五日報恩講だ」という言葉から私が思うのは、「姿勢が問われる」ということです。
 姿勢とは聞法の姿勢ということもありますし、それはそのまま生きる姿勢ということにもなろうかと思います。
 そして、「姿勢」ということで思い起こされるのは、これまで聞かせていただき、今も聞かせていただいている先生や先輩方の姿です。

 そして、その姿に私は「自分をごまかさず問うていく」ということを感じます。それは大変難儀なことではありますが、そうでなければ何も聞こえないのだと思います。

 「御遠忌」ということ、そして「ごまかさない」ということを思う時、これも聞かせていただいた言葉が元なのですが、
 「まるで親鸞聖人のことを知っているような顔をして御遠忌と口にしているが、果たして私は親鸞聖人にお遇いしたといえるのか。お遇いしたいと思っているのか。」
という声が聞こえてきます。それは決して私を否定する声ではなく、私を歩ませる、私の姿勢を問う声として聞こえてきます。

 そして最後に、『時』ということを思うと、今の姿勢を問うということが、これまでを見直させ、これからを見据えさせるのではないか。そのことは、一生に一度の『時』と『場』としての御遠忌が、まだしばらくは生きているつもりの私に、「今」という時を重く突きつけてくるように思います。

(中勢一組・淨願寺候補衆徒 二〇一三年一二月上旬)