030まかせられない心

服部 拓円

 以前、私の母が闘病している時に、「頑張れ」と言われるのが辛いと言っていました。「頑張れ」と言う方はもちろん治って欲しいから言うのですし、言われる方もその気持ちは同じであると思います。だからこそ、「これ以上何を頑張れというのか」と、「今のままで精一杯」であるのに、それ以上の結果を求める「頑張れ」という言葉は、母にとって大変辛いものだったのだと思います。
 しかし、それは「阿弥陀さまが何の条件もなくそのまま救いとってくださる。そのままでいい」という有難さを、母と私に教えていただいた機会でもありました。

 先日、ご門徒の方に「お寺で二八日の法話とお斎(とき)があるので、お参りしてください」と言ったところ、「お誘いはありがたいのですが、折角のお話を聞いても、まだそんな年でもないし、私の根性は直りそうもないので、結構です」と断られたことがありました。
 しかし、少しぐらい話を聞いて、すぐに根性の直る人っているのでしょうか。

 阿弥陀さまは、「頑張って根性を直せば救う」と少しも仰っておられません。「頑張らなくとも、根性の直らないあなただからこそ、そのまま救う」と呼びかけられているのです。

 私たちはどうしても、「誰にもまかせることなく、自分自身で頑張って立派になって、価値のある人間となって救われるのだ」と思いがちではないでしょうか。もし、阿弥陀さまが「頑張って根性を直せば救う」と条件付けられたら、私たちが救われるということは非常に難しくなるように思います。

 私がつくるということではなく、阿弥陀さまに全ておまかせし「かならず救う」という願いを疑いなくいただく。
 
 おまかせできないのは、その願いに気付こうとしていないから。
 たとえ、まかせられない自身に気付いても、全てはまかせられないのではないでしょうか。自身の条件・都合の良いところだけしかまかせられないのではないでしょうか。

 それでも無条件にそのままとして救いとってくださる。その有難さが「南無阿弥陀仏」と申させていただく心であるように思います。

(三講組・圓福寺住職 二〇一三年一〇月下旬)