014おんなの子 ― ある日のお朝事にて ―

梛野 芳徳

 ある日、知り合いのお寺さんで泊めさせていただき、あくる日のお朝事のことです。
 六時半のお勤めに、副住職さんの横には、幼稚園に通う、可愛らしいお嬢さんが参っていました。まだ寒さが残る春の日の早朝、親子で勤めるほほえましいお朝事の光景を、少し離れたところから拝見していると、そのおんなの子は手に何かを持っていました。後ろから首をカメのように伸ばして見ると、誰かは知らないが、おばあちゃんの小さな遺影と、毛糸で編んだピンクのブタさんの人形を持っていました。お勤めがはじまるとその遺影を阿弥陀さんの前の敷居に置き、ブタさんの人形を膝の上に載せて、小さな体を丸めるように手を合わせて、しずかにお参りしていました。

 後から副住職さんに聞くと、遺影のおばあちゃんは寺から嫁がれた方で、お寺に遊びに来ては、いつでも子どもたちにアイスクリーム、飴玉などのおやつをもって来てくれて、昔ながらの手まりや人形などを作っては子どもたちにプレゼントしてくれた、やさしい方でした。
 そのおばあちゃんが半年前に亡くなり、お寺でお葬式をした後の、四十九日、満中陰の時、お父さんである副住職さんは、まだお参りすることの意味が分からないお嬢さんに、「今日は、死んだばあちゃんのお参りの日だよ。お菓子やお人形さんをたくさんくれて、やさしくしてくれたね。感謝して、『ありがとう』って、参ろうね」とやさしく諭して、お嬢さんに声をかけたそうです。するとその日以来、毎朝、お朝事には仏間からおばあちゃんの小さな遺影を持ち出し、自分の部屋からはおばあちゃんにもらったお気に入りのブタさんの人形を抱いて参るようになったというのです。

 このおんなの子は、四十九日のお参りも、毎朝のお勤めも何の分別もなく、お父さんから教わった通り、素直に「おばあちゃん、ありがとう」と、仏さまに毎日、まいにち手を合わせているのです。毎日、まいにち手を合わせ、亡くなったおばあちゃんと出遇い続けているのです。やさしくしてもらった記憶を大切にしながら、いつでも「わたし」という存在がすぐそばにいる人たちだけでなく、先立って行かれた人たちから願われ続けていることを、このおんなの子は知っているのでしょう。彼女にとってナムアミダブツとお参りをする場所は、亡くなったおばあちゃんと自分自身とをつなぐ場であり、わが身にかけられた深い願いを聞きつづける場所なのだと思います。

  前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲ほっす。
  無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。
                        (『真宗聖典』 四〇一頁、『安楽集』)

 道綽禅師のお言葉が聞こえてくるようです。

(南勢一組・源慶寺住職 二〇一三年五月中旬)