032空しさの中で

池井隆秀

今年も報恩講のお勤めがあちこちで始まりました。年月は電光の如く経ってしまいます。この一年の中には、いろいろなことが起こってまいりました。嬉しいことも多々あり、悲しい出来事も多々ありました。それらの出来事に出会っておりながら、のどもと過ぎれば熱さを忘れるという諺のように、すべてが夢の如く過ぎ去ってしまっております。そんな時、ふと我に返ると、何をしておったのだろうかという空しさに襲われる経験をされた方もあると思います。

空しさは毎日の日常生活に流されて、生きる目的を見つけることができない姿をいうのではないでしょうか。過日(7月)中日新聞の人生のページに「人は何を求めているのか」と題して阿満利麿(あまとしまろ)氏の記事がありました。

「ある時、定年を迎えたサラリーマンのなげきを紹介する新聞記事を目にした。彼は、定年後しばらくは『毎日が日曜日だ』と自由な時間を手にしたことを喜び、かねて希望していた海外旅行やゴルフに日々を送っていた。だが、5年ほど経過した時、『やりたいことは全部やってみたが、何か空しい、これでいいのだろうか』と妻に訴えたという」と記されています。

この「やりたいことは全部やってみたが、何か空しい」という言葉は、人間のだれもが持っている心の奥底からの声(サイン)であり、「本当の道を求めたい」という切迫した気持ちが、この言葉を言わせたのではないかと阿満氏は言われます。私たちは心の奥底で「空しさ」に耐えきれないものを持っています。それは苦しみに耐えることよりも難しいことだと言われた方がありました。そのサインともいえるメッセージは、私たちが毎日の生活を送る中で、「本当に生きるとは何か」「何のために生きているのか」という問いであることだと思います。言葉を変えていえば、「私は何をなすべきか」と、また「使命ありと知れ」という要求でなかったかと思います。

『恩徳讃』に

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

(『真宗聖典』505頁)

とあります。そのことは私たちの一日一日が、「身を粉にしても報ずべし」「ほねをくだきても謝すべし」という使命を持って歩むことを私たちに告げられました。自己関心から一歩も出ることなく眠り続ける私から目覚め、真にしなければならないことを見出して実践していくことが求められているのではないでしょうか。