017上皿天秤(うわざらてんびん)

清井道子

若いころ、私はお茶を習っていました。先生のお茶室の水屋はいつもさっぱりと片付いていました。そしてお宅が病院だったからか、道具棚に上皿天秤が鎮座していました。近頃、この天秤がなつかしく思い出される私です。

それは、あるご法話に「仏の願を受けて、凡夫、と気づかされる時、天秤の両皿が釣り合う」と、天秤が登場したからです。仏様の願いは、常にこの私の思いに先立って、はたらいてくださっていると言われるのです。私は「えっ?」と耳をそばだてました。ご講師は、「気づかされた時、南無阿弥陀仏がこの私にふきだす。この御名号をいただいて、このなかを歩いてゆくのです。仏道です」と続けられました。驚きでした。以後、私の心は落ち着きません。仏様の前に素の自分を投げ出し、「はい」と背くことなど、とてもできない私ですが、聞法のご縁を頂く毎に、私の心はざわざわして妙に喜んでいます。ああ、そうだったのかと、思い返すことしきりです。

お茶の稽古が少し進んだある日の事です。お茶の先生があの上皿天秤を棚から降ろされました。「お抹茶を少し分けてあげましょう。家でも味わってみて下さい。20グラムでいいですね」とおっしゃって、茶杓(ちゃしゃく)で一掬い一掬いしてお抹茶を量って薬包紙に包んで手渡して下さいました。私はその丁寧な手の動きを天秤の左右がピタッと釣り合うまで、じっと息を凝らして見ていたのを思い出すのです。

私はいつの間にか、この、じっとこらえて、問い続けることを忘れていました。丁寧な心を忘れていました。時々、静かな空気、気配に捕われることがありますが、それは暫(しば)しのことで、煩雑な暮らしの中に消えていきます。

昨年末、私はこの絶え間のない雑事を縫って、一人で御本山にお参りしました。所用があってのことでしたが、少し自分を見つめることができました。着いたのは4時をまわっていましたが、御影堂はまだ開いていました。静かでした。私は私の周りを、漂い、流れていくあの寂としたものが思い出され、あれは何だったのだろう、今ここにいる私ってなんだろうと、座っている畳や私の肩を覆う衣服の感触や、人の話し声の中にも問うてみました。が、また何もわからないままに閉門の刻限も気になって、座を立ちました。

山門の下で、何か、去り難い思いがして御堂に向き直ると、すでに人影はありませんでしたが、参道一直線向こうの御堂の奥深くに、宗祖の御影を拝することができました。このことは又々の驚きでした。感動も同時でした。私は過去何度もこの山門をくぐりましたが、いつも御堂の甍ばかりを、ただ仰いでいただけでした。「南無阿弥陀仏」がこの私にまでも、届いてくださっているのを感じました。

「一つの心打つものがあれば、ただ一つの大切なものを知れば、遠い道のりも歩き出すことができる」というご講師のお導きの言葉が今も思い出されます。