004悲願

花山孝介

今年の3月27日より30日にかけて、三重教区・桑名別院では宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤められます。この御遠忌を迎えるに当たり、教区では「共に大地に立たん」というスローガンを掲げました。私たちは、このスローガンをどのようにいただけばよいのでしょうか。

今日、人間関係が希薄になっているといわれて久しいのですが、その反面、私たちは他者との関係を大切にしたいと思っています。しかし、私たちが求める関係性は、自分の都合に合う関係性を求めていますので、自分の思いに添わなければ何時でも他者を排除していきます。では、どこで真の人間関係が成り立つのでしょうか。

宗祖に「他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(『真宗聖典』 六二九頁)という言葉があります。この「悲願」に、このテーマを確かめる大事な視点があるように思われます。それは、自らの思いや価値観に立つ限り、自他の関係は傷つけ合うしかなく、そのような自分を残念ながら自ら知ることはできません。阿弥陀仏の願いを「悲願」と宗祖が押さえられたのは、自他の関係性を傷つけながら生きようとしている人間の在り方が、仏に悲しまれている存在であると頷かれたからです。

私たちは、どこまでも「悲願」からの呼びかけを聞き続けていくほかありません。宗祖は、どこまでも真理(まこと)の言葉に自身を尋ねながら、その在り方が、痛ましい・悲しいものであると教え、呼びかける仏の声に、まさに「愚者」なる自分を教え続けられる生き方を貫かれました。それは、私の計らいが破られ続け、どこまでも自らの在り方に懺悔(さんげ)することにほかなりません。だからこそ私たちは、どこまでも「仏願に導かれながら生きるものになれ」と呼びかけ続けている声に耳を傾け、その願いを自らの志願として歩むところに、共なる世界を生きる道が開かれると思います。