032元気はいただくもの ―報恩講の季節に思う―

泉有和

勤務する学校の学生で、東日本大震災のボランティアに、何回も行っている人たちがいます。この前、その学生の一人と話す機会がありました。彼女曰く、「何度行っても、何もできなかったという気持ちばかりです。だから帰ってきても、すぐに、もう一度行きたいと思ってしまう」と。そして「震災で苦しい生活を余儀なくされた人たちが、でもそこで賢明に生きようとされている姿に接すると、元気をもらえます」と言っていました。その言葉に感銘を受けながら、「元気とは何か」と考えておりました。

ある方に聞いた話ですが、知り合いに、とても活発な奥さんがおられるそうです。陽気な方で、その人といるとみなが楽しくなります。ボランティア活動にも熱心で、最近ですと震災の援助物資を呼びかけて集めたり、地域で高齢者を支える活動でもリーダー的存在だったりするそうです。それでこの前「なぜそんなにお元気なんですか」と聞かれたら、少し考えられた後「お蔭様をいただいているからでしょうか」と言われたとのことでした。

先ほどの学生の言葉もそうですが、我々は「内側のエネルギーや、元気の源は自分のこころの中にある」と思っていることが多いのですが、考えると、どうもそうではなく、外から来るもの、いただくもののようです。

浄土真宗では「本願他力」といって、願いの力は自分の中にあるのでなく、他から(外から)くる、というのですが、それを「そんな他力本願なんか駄目だ」といってさげすむ人がいます。他力ということを、何か自分では努力しないで、ものごとを他の人にまかせてしまう、なまけもので無責任なことのように思われているようですが、大きな誤解です。そうではなくって、本願他力とは、お念仏を通して、お蔭様をいただくからこそ、我がいのちが躍動するのだ、ということだと思うのです。

私たちは、ついつい自分の世界だけを生きてしまいがちですが、それでは生きる力はやせ細ってしまいます。殻の中に閉じこもって、元気をなくしている私に、南無阿弥陀仏という名号を通して、本願(願い)のエネルギーを与え、それぞれの根源的要求を掘り起こして、自分を支え生かしているお蔭様を知る眼を開かせようとする。そういういのちのはたらきを、仏さまというのです。

そのはたらきに出会うと、自分がこうして生かされてあることの意味の深さが「ああ、そうだったなあ」と、しみじみと感ぜられ、そのよろこびの中から「ご用をはたさせてもらおう」「目の前のことに積極的に関わろう」という元気も出てくるのでしょう。

あちこちで報恩講の勤まるこの季節ですが、あらためて、仏様の与えてくださる「本物の元気」を受け取れる身になりたいものだと、強く思うことです。