024祖父の歌

箕浦彰巖

今年もお盆が終わりましたが、まだまだ暑い日が続いています。

さて、毎年お盆の時期になると、私は亡くなった祖父のことを考えます。祖父は私が2歳の時に亡くなりました。まだ、物心もつかない幼かった私には、祖父の面影は残っていないのですが、家族や親戚、そしてご門徒の方々に伺うと、厳しくもあり、また優しい人柄だったそうです。そんな祖父は晩年家族にこんな歌を残しています。

離れても 寂しくはあらじ 御仏の 光の内に いると思えば(慈照院釋雄巖)
死に別れようとも、阿弥陀仏のお光(広大な願い)の中に共にいるのだから寂しくはない、と私はいただいています。この「御仏の光」「阿弥陀仏のお光」というのは、宗祖の、

煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり(真宗聖典497頁「高僧和讃」)

の「摂取の光明」であろうと思うのです。そういただくと、常に弥陀の大悲に照らされている、御仏の光の中にいる我らは、生死を超えて共にいるのだ、といただけるのです。これが、祖父が宗祖の教えによっていただいた、一人の念仏者としての世界観、生き様のように思えるのです。そんな祖父の歌は、私にとって宗祖の教えへの導きとなり、生きる道標になっています。

『教行信証』の「化真土巻」の末に「前にうまれん者は後ろを導き、後にうまれん者は前を訪え」(真宗聖典401頁)とあります。祖父の生き様は、家族という枠を超え念仏者の先達として私を導いているように思います。