019ポックリと死にたい

加藤淳

今年の4月、あるご門徒さんが1年2ヶ月もの間意識が戻ることがないまま亡くなられました。家族の方からは、面会に行っても何も反応がないので張り合いがない、という言葉を聞いてはおりました。

葬儀が終わり5日後に家族と親戚が寄って、お墓に納骨されたようです。ところが、納骨が終わった夕方に、先程まで元気でおられた奥さんが突然体調を崩されて亡くなられたという知らせを受けました。ご主人さんが亡くなられてちょうど1週間しかたっていませんでしたので、家族の方もお母さんが亡くなったことを引き受けることができない様子でした。

その奥さんのお通夜の席で、「先週のご主人さんに続き、今日はお母さんのお通夜です。一週間で二人と別れるということはとても寂しいことです。お二人の亡くなり方は両極端ですが、お二人から、寝込んで死ぬかもしれないし、ポックリ逝くのか分からないのが皆さんたちの人生です、とメッセージをされているのではないでしょうか」とお話をしました。

そのお通夜が終わった後、知り合いからポツリと聞いた感想は、「できたら私も奥さんのようにポックリと死にたい」でした。その言葉は、いつか私たちも身体の調子が悪くなるということを知っているから発せられる言葉なのでしょう。けれども、ポックリと逝くための今を生きているとするならば、なんだか寂しい感じがします。

私たちはついつい、健康と病気、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、長いか短いかと、心のものさしで計ってしまいます。良いことはご縁として受け止めますが、病気になったり怪我をしたり、悩んだりした時は、これは本当の私の人生ではないと、現実を受け止めることができません。

しかし、身近な人を縁としてお通夜や葬儀が勤められることの意味は、「あなた方もやがて老いて、病んで、死んでいくということを自分の問題としてどう受け止めますか」という、亡き方からの声なき声を聞いていくことだと思います。

たとえ病気になって寝込んでしまっても、私たちは生きていかなくてはなりません。念仏していくということは、そのことを引き受けて生きる勇気をいただくことではないでしょうか。