017法(ほ)の香(か)にそめて

池田真

先日、詩を作りました。そうしましたら『いのち輝き』(「念仏ブギ」)というCDを出した、佐々木賢祐(名古屋教区第1組)ご住職が曲にして歌ってくださいました。(聞いてください♪)

法の香にそめて

目には見えない あなたのすがた もう聞こえない あなたの声は ふれることない あなたの手のひら テレビを消したら いつもの場所に 目を閉じて 両手を合わす あなたの面影 心につむぐ あなたが遺した 今日の私を 法の香にそめて あなたと出遇う 私にとどけ いのちの願い 間違いないと 歩んだけれど リセットしたい ホントはごめんね 別れて知った 今 ありがとう あなたが遺した いのちのアドレス 法の香にそめて 信ずるままに 君へと届けよう いのちの輝き

「法の香にそめて」とは、朝夕のお勤めや御同朋(仏縁の友)との聞法・座談、そして仏法を推進された先人の生き方を憶ってつけました。

ご承知のように、親鸞聖人は『教行証文類』の末尾に「前に生まれるものは後のものを導き、後に生まれるものは前のもののあとを尋ね…」(真宗聖典401頁、現代語〔本願寺出版社〕)と、「先輩⇔後輩」のつながりの中で、浄土真宗の救い・成就を記しておられます。

多くの先人たちは、亡き「あなた」を機縁として、「両手を合わす」という「場所」をいただかれ、亡き人・教えに出会っていきました。そして、お勤めや聞法の中から阿弥陀の本願(願い)、浄土(いのちのアドレス)を明らかにされ、そして後輩である「君に」、「いのちの輝き」を「とどけて」くださいました。「いのち輝き」とは、仏と先輩・後輩という関係性に目覚めた先人、そう、親鸞聖人の生き方(推進)です。

昨今は、「直葬」や「無縁社会」と表現される無宗教や人間関係の希薄さの指摘がされています。それは、いわば自己中心的姿勢、仏を否定する延長上で、いつでも起きうる問題でありましょう。

先日、教区の座談会で、「仏・先祖に手を合わせない私が育てた子どもから無縁にされるのは当然やわ」という感想を聞かせてもらいました。私には「無縁を作っているのは誰ですか」という問いと同時に、古くして新しい因縁の道理を教えていただくことです。蒔いた種は芽が出て、同時に蒔かない種は芽が出ないでしょう。

いよいよ「テレビ」の情報や「間違いない」という私の物差しを照らし出す、仏言や生き方、人生の方向を「法の香に」(ちょっとずつ)いっしょに尋ねてまいりましょう。 合掌