017テレビのこわさ

木名瀬勝

私がテレビを見なくなったいくつかの理由の一つについて考えてみた。

古き時代ある王国の貴族が、世界中の珍味を使った手の込んだ料理ももはや食べ飽きて、そっけない食事の時間をどう楽しくしようかと困っていた。そこで、大きな屋敷のテラスに面した庭園に、不幸に見舞われた貧しい民を登場させ、人生の苦悩を語らせた。そこでは、家を焼かれた老人や、子どもを奪われた母親や、進行する病気にうずくまる者のすすり泣きとうめき声が流れ、それに心を痛めつつ、わが身の境遇の幸せと食事を与えられたことに感謝するのだった。

しかし、しばらくして、この世のあらゆる不幸の声に飽きてしまうと、今度は肌の色の違う男たちを戦わせた。長い剣と楯を使って、肉を切らせ骨を削らせる、血で赤く染まる現実は、再び食事を喜びの時間に変えた。

それを聞きつけた貴族たちは、こぞって人間の苦悩を味わおうと、女性や子どもも引きずり出して、彼らが傷つけ合う姿を眺めつつ、メインディッシュの肉をほおばり、五感を楽しませるのだった。但し、恐怖によって吹き出される汗の臭いは、ワインの香りを損なうので、テラスと庭をガラスで仕切る工夫がなされた。

時代は変わり、一部の特権階級のものだったこのような娯楽は、世界中の人々が享受できるようになった。少なくとも電気が通っているくらいの豊かささえあれば、それはテレビと言われる。

さて、それはいつもの朝の食事の時、私はご飯をもごもごと噛みながら、テレビを見つめていた。悲惨なニュースだ。イラクのモスクで爆発があり、子どもが多数死傷した。パトカーの追跡を受けた盗難車が信号待ちの集団に突っ込んだ。原因不明の院内感染で体力のない入院患者が多数死亡している。母親を殺し、放火した青年の上告が棄却され、死刑が確定したと伝えている。

ご飯は白く、味噌汁は温かい。好物のめざしは新鮮で美味しい。そして目の前では、世界中の不幸が次々と繰り広げられる。

しかし、それらの現実は私の食欲を全く減退させることはない。神経質すぎるとみなさんはお思いだろうか。闇は人間の心の底に潜んでいるものではない。この当たり前の生活そのものが闇となって、人間であることを失わせている。私の知識では決して疑うことのできない日常を「変だ」と感じさせる光、そこに真宗の生活があるのではなかろうか。