004痰のつまりし仏

桑原範昭

司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見た。明治の小国・日本がやがて欧米列強と肩を並べて発展していく時代を描写している。四国・愛媛の松山で幼なじみであった3人の若者たちが切磋琢磨し、やがて、それぞれ将来の夢に向かってゆく物語だ。

一人は日露戦争でバルチック艦隊を打ち破った日本の連合艦隊の作戦司令参謀、秋山真之。そして、日本陸軍の騎兵隊を組織し、ロシアのコサック兵団を打ち破った真之の兄、秋山好古。そして、もう一人は俳人の正岡子規である。

私はなぜか正岡子規の生きざまに心打たれた。彼は夢破れ、痛ましい身の境遇にのたうちまわり、不運な人生を生きる中にありながらも、自ら選んだ俳句の世界に新たな革新の息吹を吹き込んでゆくのだ。

結核という当時不治の病に侵されながら、苦しみの絶えつつも、たくましく生きようとする姿は悲壮的でさえあった。わずか34歳という若さで亡くなるのだが、その無念さはいかばかりであったろう。苦悩の自分をごまかすことなく、泣き、叫び、恨みつらみの限りをぶちまけながらも、新しい俳句の世界を切り開くという一大仕事を成し遂げてゆくのだ。

自分の病床から見える庭だけが彼の全宇宙であった。絶望のただ中、彼の光となったものは俳句を作るということで、それが今を生きるということの唯一の証しだった。

彼が後にしみじみ述懐していることがある。それは、人間の救いとは心おきなく死んでゆけることと思っていたが、そのことは間違いであった。人の救いとは、身の境遇がいかなる状況であろうとも、平生に生きておれるということだった、と。いつも苦しみから逃げて楽を求めようとする私にとって厳しい言葉である。

へちま咲きて 痰のつまりし 仏かな

これは彼の辞世の句である。救われるということは、もう楽にならなくてもよい、と言えたことなのかもしれない。そういえば、真宗の教学者、安田理深氏は「穢土に悠々と居れる世界を浄土という」と言った。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を歌った時、子規はどんな心境だったのだろう。