033たった一つの生命だから

小園至

今年も1ヶ月たらずで終わろうとしています。この1年を振り返るといろんな出来事がありました。毎日のようにどこかで殺人事件があり、また若者の自殺が増えています。

私の身近な所の出来事ですが、今年7月のちょうど高校野球が盛り上げっている時期の夜、あるご門徒さんから「うちの息子が亡くなった」と連絡があり、「どうしたのですか」と尋ねると、親戚の方からこのように説明がありました。

たまたまこの日、息子さんが夜勤のため、昼、子どもたちと母校の野球チームの試合をテレビで見ながら楽しんでいたそうです。そして、奥さんが「夕食の時間やでー、おじいさん、父ちゃん呼んできて」と言われて、息子さんに食事の時間を知らせに表に出た時、倉庫にいつも灯が点いていないのに、何で灯が見えるのかと、倉庫に行ってみると、息子さんが倒れていた。びっくりしてすぐ病院に搬送したけれども、既に亡くなっていたそうです。

私はびっくりしました。あの元気な息子さんが…と。寺の研修会にも参加してくれて、素晴しい青年でした。「私は、何で?何か自死するような悩み事があったのですか」と尋ねました。祖父母、奥さんも、「全くそのような気配がなく、心当たりはない」とのことでした。

この訃報を聞いた時、祖父母、若い奥さん、そして子どもたちのことが気になりました。自死した本人も辛いでしょうが、残された家族がどれほど辛いか。先達からこの「たった一つの生命」をいただいた、その重みと生まれた意義と生命の尊さに目覚めなければなりません。この家族は、これからどんなにか長い悲しみと苦しみの道を生きていかなければならないでしょう。

できるだけ楽しい、上手い目に遇いたい、幸せな人生を送りたいというのは、大方の人間の願いです。しかし、思いがけない不幸や、悲しみ、苦しみに出遇う時、「生きるということの難しさ」に直面します。それは人間が問われるべき、かけがえのない契機であります。

苦しんでいる人と出遇った時に、我々は「よき人・よき友」にならなければなりません。そして、共に苦しみを乗り越えて、「生きていて良かったなぁ」と言える人生を送りたいものです。