031報恩の歴史

木村大乘

私の父は今年の5月初旬に94歳の生涯を終え還浄いたしました。亡くなった日の夜、悔恨のようないろいろな思いが去来する中で、ふといつも病院のベッドで合掌して、念仏を申している父の姿が目の前に浮かんできたのです。

高齢で記憶力も理解力も認識力も衰えていましたから、口癖のように称えている姿にしか私には見えていなかったのでした。もうこれで形ある姿ともお別れなのだと思った時、仏法に出遇うことを何よりも願っていてくれたことが、改めて私自身の歴史として拝めてきたのでした。

なぜか南無阿弥陀仏という、形を超えた、計り知れない如来の大慈悲心のいのちの中に父の宿業(しゅくごう)の歴史があったことが拝めてきたのです。それだけでなく、ここに在る我が身も、そしてこの世界の全ての生きとし生けるもの全てが、本来は形なき南無阿弥陀仏のいのちそのものであることに気づかされてきたのです。それは、何とか仏法が頷ける自分の思いや考えを、遥かに超えてつつまれてあった念仏の世界であったと言えましょう。

その後も相変わらず自我の執着心に捕らわれ、善し悪しの思いに振り回され、煩悶する生活ですが、この親鸞聖人のお言葉を憶念し歩まされて行きたいと思います。

「称仏六字(しょうぶつろくじ)」というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。「即嘆仏(そくたんぶつ)」というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔(そくさんげ)」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業(ざいごう)を懺悔(さんげ)するになるともうすなり。「即発願回向(そくほつがんえこう)」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり。「一切善根(いっさいぜんごん)荘厳浄土(しょうごんじょうど)」というは、阿弥陀の三字に一切善根をおさめたまえるゆえに、名号(みょうごう)をとなうるはすなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。(真宗聖典520頁)