025老いを生きる

伊藤宣章

若くして亡くなった方のご法事にお参りさせてもらった時のことです。亡くなられた方のご兄弟が遺影を見ながらこのように言われました。

「ずるいよね」

その一言があまりに意外で、どうしてずるいのかお尋ねしたところ、「思い出の中でいつまでも若いままの姿で微笑んでいるのに、私はこうして自分の体に悪い所や不自由なところが出てきてどんどん年老いていってるんですよね。それでずるいと思っちゃうんです」と答えられました。他の兄弟たちも頷いています。聞けば、「いつまでも思い出の中で若いのはずるいという気持ちと、それに引き換え自身は年老いていくのが寂しいという気持ちは同じようにあるんです」とのことでした。

兄弟みんな仲が良くお互いの家族も一緒に食事に行ったり旅行に行ったりしていたそうです。ずっと一緒に生きてきた人が先にいなくなり、残された自分自身のことを思わずにはおれないのでしょうね。正直なお気持ちなのでしょう。若いままの亡き人を羨ましく思い、年老いていく自身は残念であると。

しかし、若さが羨ましく老いが残念ということが決まりであれば、必ず年老いる私たちはこの世に残念無念の人生を送るために生まれてきたということになってしまいます。年老いていけば若い時には気にもならなかったことが心配になってくるでしょう、不安にもなってくるでしょう。「今のまま」がいつまでも続くとは思えなくなるのです。

そんな私たちが亡き人を通して「残念無念の人生のためにあなたは生まれてきたのですか?」というメッセージをいただいたのです。メッセージをいただいた私たちには「このままでいいのだろうか」といった思いが湧いてきます。

その昔、老病死の姿を見た王子は世の非常を悟り、道を求めて釈尊となりました。生死出ずべき道を求めた青年は後に親鸞と名告(なの)りました。

「このままでいいのだろうか」という思いは、実は大切なことなのかもしれません。