023神衹不拝(じんぎふはい)

酒井誠

私が住んでいる伊勢の地は伊勢神宮のある所です。観光地でもありますので、友人・知人が訪れると神宮に案内することが多いのです。木々に囲まれた参道をゆっくりと歩くのは清々しい気持ちになりますが、しかし同時に、行きたいけれどもどこか抵抗がある、好きだけど嫌いという複雑な思いも感じます。どういうことかと言いますと、真宗の教えで取り上げられる神衹不拝(じんぎふはい)ということが、どういうことなのかがはっきりしていないのです。

日本人は古来、様々な神を見出してきました。山の神・火の神・風の神・道の神などです。身近な所では学問・良縁・健康・商売繁盛の神もあります。その根底には災難を取り除いて福を求める心があります。

私たちは誰もが逆境を厭います。失敗したくない、負けたくない、損したくないと。そして更に、誰よりも強く、賢く、得したいという思いを激しくもつのです。そのために穢れを祓い身を清め、神に捧げ物をして祈るのです。友引や仏滅などの暦を気にしたり、方角を気にしたりするのも神に祟られない様にするための習慣です。

これらのことは、神に限ったことではなく、私たちが仏を拝み先祖のお参りをする時も、祟りを恐れ、幸福を願う心でしておりますし、お内仏を安置する場所や、友引・仏滅などの暦も気にします。仏教を信仰していると言っても、実は神の信仰と同質であり、またそれが日本人の体質なのです。

私たちの信仰心・日本人の体質、それに対し、真宗は神衹不拝、そして物忌みしないということを金科玉条(きんかぎょくじょう)の如く守り、日本古来の神への信仰を捨てろというのではありません。

私たちは生きている間には様々な災難、逆境の中で苦悩します。その苦悩を通して、どこまでも人間であることの意味を尋ねてほしい、苦悩と共に歩むことを恐れるなという呼びかけを聞き取ってほしいという願いが流れているのです。