015一生懸命生きれども

中川達昭

既に終了しましたが朝の連続テレビドラマ『ちりとてちん』の中で忘れられないセリフがあります。ヒロインの女友達が妊娠してしまう場面で、相手を聞いて驚くヒロインはなぜ彼なのかと尋ねますが、その女友達はこう言います。「あいつはホンマのアホや。けど、アホなりに一生懸命生きとる。一生懸命生きとるアホほど厄介なものはないで。そやけどな、だからこそいとおしい…」と、このような内容だったと思います。

私はこのセリフを聞いた時、阿弥陀仏の大慈悲とはこういうお心ではないかと、ハッとしました。言い方は悪いですが、一生懸命生きている「アホ」は私たちです。私たちは自分の幸せのためにどんなことでもします。一生懸命です。しかし残念なことにその「果て」が分かりません。「答え」が見つからないのです。すると私たちは、なおさら一生懸命になります。その繰り返しの中を生きている私たちを親鸞聖人は「流転輪廻(るてんりんね)のわれら」とおっしゃられています。

しかし、幸せを求めることがいけないことではないのです。私たちはそれぞれのご縁の中で日々一生懸命生きています。境遇や度合いに違いがあるだけで、一人として楽な人などいないのです。でも一生懸命生きているのに満たされない、虚しい、何か違う、という私の内なる思いには、なかなか耳を傾けることができません。

念仏とは、そんな私の内なる思いが呼び起こされるものなのかもしれません。阿弥陀仏は念仏をもって「私はちゃんと観ておるから安心してあなたはあなたを生き尽くされよ」と私たちにおっしゃっているのです。親鸞聖人はそのことに気づかれたからこそ、阿弥陀仏の大慈悲を「仏恩」と感謝され、蓮如上人は「かたじけない」と恐縮されたのでしょう。流転輪廻のこの私だからこそ、苦しみに満ち満ちているこの娑婆だからこそ、仏に出会える、智慧をいただける、念仏申す身になれることを大いに喜ばれたのです。