036ほとけ様の願い

片山寛隆

先日も、今年を振り返って漢字一字をもって言い当てれば「命」ということがありました。「いじめ」の問題から自らの生命を絶つという痛ましい事象が後を絶たない、あるいは親が我が子を虐待して死に至らしめるということが何処にでもあるような世の中になってしまったと、嘆きの声も何か空虚を感じてしまう時代です。「どうしてこんな問題を起こすような子になってしまったのでしょうか。こんな子に育てた覚えはないのに」と悲痛な訴えを聞くことがあります。

我が子との関わりにおいて、親は一生懸命にがんばって育てていることには、どんな親も変わりはないものでしょう。しかし、問題が生じた時、そのことにどのように関わるかが普段の関係によって決まってくるのではないでしょうか。

子どものためと、うるさいと思われても、子どもに対して「勉強しなさい、宿題を早くしなさい」と口が酸っぱくなるほど言って育ててきましたという親があります。本当にそうでしょうか。何度も何度も言えば、子どももそれに対して応答してくれることもあれば、時と場合によっては応えてくれない時もあります。その時親は「こんなに言っているのに言うことを聞かなかったら、もう知らないよ」ということを知らず知らずの間に言っていることに気がつかないものです。

その言葉が子どもにとっていかなる言葉であるか「もう知らない」と親から突き放されたその声が、親子の断絶を親の方から宣言した言葉であることを。

子どもの悩みを親が感知できない。子どもが悩みを親に訴えられない、子どもを孤独にしている原因の一端が親にあることを考えてみたいものです。

ほとけ様は、四十八の願いを私たち一人ひとりにかけて誓ってくださいました。そして、その願いに気づき頷くまで私を心配して、私の傍らを離れないと誓ってくださいました。だから、ほとけ様のことを昔から親様と言ってきたのです。