035内観(ないかん)の眼(まなこ)をいただく

泉有和

仏教の特徴を一言でいうと「内観」の教えであるといわれます。内観というのは内側に眼を開くことです。この肉体にある眼だけは、どれだけ努力しても自分の内を見ることはできません。この内観の眼を仏様の眼というのだと教わりました。

この眼をいただくことなしに、人間の眼だけで見ていると、何事につけ自分抜きでしか考えることができません。あの人が悪い、この人が悪いという思いでしか見ることができないというのです。「自分のことだったなぁ」と受け止めることができないのです。今の苦しみをすべて他人のせいにして、自分に原因があることに気がつかない。その心が自分を苦しめ、周りの人たちを苦しめるのです。

この前の夜、暗い中を手洗いに起きたのですが、その途中足の指をぶつけてしまい、あまりの痛さにうずくまってしまいました。我が家の板の間から畳の間の境には敷居があるのですが、それが心持ち高めなのです。普段なら引っ掛けることなどまずないのですが、その敷居に足をぶつけたのです。その時、まず浮かんだ言葉は「誰や、こんな家作ったのは!」です。寝ぼけ半分で電気も点けずですから、すり足でもして気をつけて行けばこんなこともなかったのにと思うことは思うのですが、その後から「それでもあの敷居が高かったのが悪い」という、他に責任を転嫁していく思いが湧いてきました。頭では分かったつもりでいても、どこどこまでも自分の問題を認めることのできない者がここにいたのですね。

同じ頃、テレビから「いつも誰かのせいにしてばっかりだった俺」という曲が流れてきました。湘南乃風というグループの曲だそうですが、その曲名に心が動かされました。「すみません」と頭を下げながらも、内側ではなかなかそうは思っていないのがこの私です。でも、そんな自分がお念仏をいただくというのは、難しいことではないのだというのです。「問題はこちらにあったなぁ」と、我が身の間違いない事実に気がつくだけの世界です。こんな簡単なことですが、照らされないと気づかない、内側を見る眼をいただかないと、なかなか気がつかないのですね。

仏様の教えに出遇うと、内側の眼をいただいて、素直でない身勝手な自分が見えてくるのです。人間は教えられないと、自分が悪かったということに眼が覚めないのです。

食べ物や着る物が十分にあったり、お金がたくさんあったりと、生きていく上の様々な条件が満たされれば、人間は幸せになるのかもしれません。しかし、より大事なことは何をこの身に教えられて生きるか、それがあるかないかです。内観の眼をいただいているかどうかでないかと思うことです。