032還相(げんそう)の菩薩

尾畑文正

人として生まれた限り、誰でも最後の時を向かえます。最近、特に自分と同じ世代の人たちの訃報に接する機会が増えました。それだけ自分が歳を取ったということでしょうね。今年の夏に、突然、友人とお別れすることになりました。全く信じられない死の現実でした。

人は誰でも死ぬ、その絶対的現実の前に、ただただうろたえていました。その悲しみの中で、友人の死は私にとって何であったのか考えてみました。少し聞いていただきます。

人の死とは、いかなる人の死も、例外なく、二度と再び迷うことのない世界に帰るということです。煩悩をおこす必要もない身となるということでしょう。それを仏教では法の身、法身となるということです。真宗的にいえば、南無阿弥陀仏となられたいってもいいでしょう。そういう人の死の受け止め方に身を据えて、友人の死をとらえた時に、悲しみの中で、私は確信します。

人は死して必ず仏となる。その確信から15年にもわたる友人との関わりを思い浮かべてみる時に、友人は私にとっては還相の菩薩様であったと気づかされます。還相とは還来穢国(げんらいえこく)の相、つまり、仏が菩薩となってこの娑婆世界において衆生救済のおはたらきをされる姿のことです。

友人は15年もの長い間にわたって、私の目覚めを待ち続けておられたのです。ある時には企業人として、その後は私が勤める大学の学生として、そこを卒業してからは聞法会の仲間として、ずっと、この私の拙い仏教の講義をそのまま受け止めて、煩悩の底に身を埋めて、聴聞者の一人となって、私を歩まさせてくださっていたのです。私にとっては、文字通りの還相の菩薩様であったのです。そのことを友人の死によって初めて気づきました。ただひたすらその仏恩に感謝するばかりです。

今は、今生この世のご縁を尽くされ、お浄土に帰られ、私が念仏申すたびに、その念仏となって、あなたはどうなんですかと、それでいいんですかと、問うてくださっていることを思います。