032糸の結び目 

木村大乘

蓮如上人のお言葉に、次のような譬えをもっての教えがございます。

それは「信を得ずして、よろこび候わんと、思うこと、たとえば、糸にて物をぬうに、あとをそのままにてぬえば、ぬけ候うように、悦び候わんとも、信をえぬは、いたずらごとなり」(真宗聖典896頁)と言われています。

つまり、針に糸を通して縫い物をする時、一番大切な「糸の結び目」を忘れては、どうなるのでしょうか。どれだけ時間を費やし、たとえ一生かかって縫い物をしても、その全体が空しく徒労に終わってしまうと言っておられるのです。それは、私たちが人間として生まれさせていただき、限りある一生をいただいている根本の意味とは、何であるかを、この譬えをもって教えてくださっているのであります。それを、蓮如上人は、親鸞聖人の九十年のご生涯をかけてのご苦労こそ、この「真実信心」を賜るためにあるのだと、私たち一切衆生に呼びかけてくださっているのです。

さて、親鸞聖人は、この真実信心を、私たち煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫の身にいただく功徳(くどく)を、次にように述べられておられます。「この信心をもって一心と名づく。煩悩成就せる凡夫人(ぼんぶにん)、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得しむ」(真宗聖典464頁)と「これは凡夫、煩悩の泥(でい)の中にありて、仏の正覚の華(はな)を生ずるに喩(たと)うるなり」(真宗聖典465頁)と。つまり、私たちの愛欲と名利の底なしの悪業煩悩の泥田が、深ければ深いほど、それがすべて肥料となって、一つの無駄もなく、真実信心の正覚の華に限りなく転じられていくのであると言われているのであります。この道理の中に我が身を見出してこそ、報恩の歴史にお応えさせていただくのであると言えましょう。