027教信沙弥(きょうしんしゃみ)のこと 

西藤克己

6月でしたでしょうか、ぜひ一度行ってみたいと思っていた加古川市の教信寺というお寺を友人と共に訪ねることができました。親鸞聖人が深い尊敬の念と親しみを込めて自らの生活の手本と仰がれた、教信沙弥ゆかりの地です。

教信という方は、親鸞聖人より三百数十年も前の人でありますが、念仏によって往生を遂げたと言われた伝説の人です。河原の粗末な小屋で妻子と共に極貧の暮らしをし、村人に雇われて労働をし、旅人の荷物を運んで日々の糧を得るという生活を30年もの間送っていたとのことです。その間怠りなく「南無阿弥陀仏」と念仏を称え続け、小屋に居ては西の方角に向かって合掌していた往生人で、人々は教信のことを阿弥陀丸と呼んでいたとのことです。

また、自分の遺体は飢えた犬や鳥に与えてくれとの遺言に従って野原に捨てられた亡骸は動物たちが貪り食って頭だけが残ったということです。そのような言い伝えによるものでしょうか、開山堂の教信沙弥の木像は首から上の頭部だけのお姿のものでした。

親鸞聖人は「私は加古の教信沙弥と同類のものである」と常に仰せられていたと伝えられています。承元の法難によって越後の地で妻子と共に過ごした厳しい日々の中で感得された「僧に非ず俗に非ず。このゆへに禿の字をもって姓となす」という革新された念仏者、また「其閉眼せば、賀茂河に入れて魚にあたうべし」という遺言、まさに教信沙弥の生涯と親鸞聖人の生涯が二重写しに見えてきます。

教信沙弥ゆかりのお寺なんだから小さな草庵だろうという私の勝手な思い込みは完全に裏切られました。広大な敷地に阪神大震災後の大修復で綺麗に整備された立派なお寺でした。教信寺の参拝の帰り道、親鸞聖人を尋ねて本願寺を訪れる人たちの描く聖人のイメージとあの大伽藍は人たちの目にどう映るだろうかと、教信と親鸞の願いが、教えがどこで生きているだろうかと、ふとこんな思いに駆られました。