022罪深く悪重き者 

泉智子

どちらかといえば楽観的な私は、文明や文化が進めば人間の知恵や技術で世の中が便利で豊かになり、また過去から学ぶことによって差別や争いの無い世界がそのうち来るだろうと、子どもの頃から空想していました。だから、人間が自らに対して「ホモサピエンス(知恵ある人)」とか「考える葦」とか「万物の霊長」とか、昔から様々に考えられてきた名前に何の疑いももたずにいたものです。そんな中、仏教では人間の存在を「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」と捉えると教えられます。今になって、この言葉こそ人間に与えられた、最も相応しい名前ではないかと思われることです。

無数の生き物が共存し、それぞれがその生命を謳歌していたのはいつの頃までだったでしょうか。すでに、かつて存在した生き物の多くが姿を消しつつあるそうです。私の住む村の近くにオオタカが巣を作った時も「あんな鳥に気を遣って、山に道も造れんとはおかしな時代になったもんや」と悔し紛れに言われた方がありましたが、言うまでもなく、人間だけが住みよい環境を整えてきたことが、他の生き物の生きる条件を奪ってきたのでしょう。

多くの方がおっしゃることですが、人間以外の生物は必要以上に生命を奪いませんし、環境の破壊もしません。また戦争を始めたりもしません。

『歎異抄』に「罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)の衆生」(真宗聖典626頁)とありますが、それは今の私たち人間のことであり、また他ならない私自身のことなのだと改めて思います。今に至る私たち人間の危機とは「罪悪深重」という自らの存在に、無条件に頭が下がるという視点を見失ったことではないでしょうか。

そして、更に思うことは、このようなことを承知しつつも、なお他人事としている自分があること、また教えの言葉を読みとばすだけで、身にこたえようとしない自分があることです。

今こそ聞法の時かと思います。