003存在悪への呼びかけ 

水谷葵

昨年末から次々と痛ましく凶悪な事件が後を絶ちません。そのたびに私たちは、世の中が悪くなった、今の若者や良い大人が我が身勝手で常識が無くなったから、こんな凶悪な人が増えたのだとつぶやいています。しかし、これらの凶悪な人々の心も、私たちがお念仏を忘れ、お念仏よりもお金や名誉のほうが宝だと思い、浄土より有頂天のほうを夢見ている心と根は一緒なのでしょう。

真宗では、私たちが罪悪深重だと教えられています。しかし、私たちは自分を悪人と夢にも思いません。今年(2006年1月)の法語カレンダーに「人の悪はとがめるが自分の悪には気がつかない」とありますが、私が何かを行うことによって悪が生じるというよりは、むしろ、私が存在することそのことが悪であり罪であるのです。例を挙げれば、今日問題になっている地球温暖化の問題は、正しく私の存在がエネルギーを消失し、二酸化炭素を排出して、地球の破壊を早め、子どもたちの未来を閉ざしているのでしょう。だからといって、この生活の在り方を止めることもできません。ただ悪を作り、罪を重ねる私たちの日常性に立ち往生するばかりです。

阿弥陀様は罪悪深重な私を予め知り尽くした上で、しかも私をこの世に出してくださいました。そして、深い悲しみをもって声となって、私の開放を誓ってくださったと教えられるのです。ところが、私たちはお金や名誉を前にするとニコッと微笑む心を、息を引き取る時まで捨てられないでしょう。ただ、この事実に深く頷き、この我が身のためにお念仏が用意されてあったことをいただくばかりです。