006「もう」と「まだ」

藤岡真

年が改まりまして、2月下旬を迎えました。「もう2月も終わりか、早いものだなぁ」というのが正直な気持ちであります。

「子どもの頃の一日は短いが、その一年は長い。それに対して、大人になってからの一日は長く、その一年は短い」と言われます。なるほど、子どもの頃の一日は短く、特に休みの日に少し遠くへ遊びに出かけた時などは、その感じが強いようです。夕暮れ時になり「そろそろ帰ろうか」と声を掛けると、必ず「もう帰るの」と抗議の声が返ってきます。あっという間に過ぎていく一日の積み重ねですが、その一年は様々な経験をし、様々な点で成長を遂げています。一年を長く感じているようです。子どもにしてみれば「まだ2月」と感じているのかもしれません。

一方、大人になってからの一日は長く、特に急いでする用事が少ない時に強く感じます。ひと仕事を終えて、時計に目をやると「まだこんな時間か」と思うことがあります。そうこうしている間に月末や年末となり、いつでもできるからと、放置してきた些細な用事の多さに驚くことになります。と同時に、できる時に済ませておけば良かったと後悔し、無為に過ごした日々を虚しく感じます。一年は短いと言わざるをえません。

しかし、時間の長さは子どもも大人も同じはずです。それにもかかわらず、時間の長さの感じ方が違うのは、日々の出来事の受け取り方が違うからではないかと思います。子どもは何にでも興味を示し吸収していきますが、大人ではそうはいきません。

さらに、ある出来事は価値の低いもの、為すに値しないものと受け取ったり、あるいは、何かをしている時間は有意義だが、それ以外の時間、無為に過ごした時間には意味がないとする受け取り方がいたずらに長い一日を作り出し、日々の生活を虚しくしているのではないでしょうか。

些細な出来事とは、自分がそう判断したに過ぎず、私の身に起こるすべての出来事は、すべて私の為になるものです。その意味で教えにあった先人たちが「ようこそ、ようこそ」と何事も受け入れた態度をこそ、生活の指針とすべきだと思います。

005法義相続-念仏の教えを引き継ぐ- 

山口晃生

お寺さんへ参りますと法義相続のポスターが目につきます。法義とは、お釈迦様や親鸞聖人の教えを我が身にいただくことでしょう。では、相続とは何でしょうか。

一般に相続と言いますと相続税、あるいは遺産相続を連想しますが、仏教では「非連続の連続」と理解します。例えば一本の蝋燭(ろうそく)に火を灯しますと、やがて燃え尽きて無くなりますが、消える前に次の蝋燭、また次の蝋燭と炎を移し続ければ永遠に燃え続けます。同じように私のいのちも太古の昔から代々受け継がれ、今たまたま両親を縁として私の番を生かされているのです。

人として生まれ、生きてきた。そして、今も生きている。それはそれで価値のある素晴らしいことではありますが、それだけでよいのでしょうか?

昨年の秋に本山へ参りました。そして動座式以来使われていない御影堂(ごえいどう)の人気のない広々とした畳の上に、たった一人で座っておりますと、改めてその偉大さを実感します。そして、長い歴史の中でどれだけの人がここに集い、合掌し念仏申したことだろう。教えに出遭ったことだろう。また、この本山を命がけで護持してきたことだろうか。そんな先人の思いに触れる時、この度の御修復を私たち門徒の力で完遂させること、そのための浄財を出させていただける時代(とき)に、こうして生きていることをむしろ喜びたいと思います。そして彼らが「真実の拠(よ)り所」として大切にいただいてきたこの真宗の教えを、今一度真剣に聴聞し「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というテーマを受け止め、念仏の教えを後世(ごせ)に引き継ぐことこそ法義相続であり、いま生を受けている私たちのすべき最も大切な仕事ではないでしょうか。

やがてお待ち受け体制に入っていきます。これを機縁として御同朋の皆様と共に益々聞法に精進したいと思うことであります。

004生きた声明(しょうみょう) 

檉歩

昨年4月より桑名別院の列座として勤めさせていただくようになり、正信偈等のお勤めをする声明や法要の儀式・作法を学ぶ機会が多くなりました。その中で声明というものは実に奥深いものだと感じるようになりました。

最近ではカセットテープやCD等でもお勤めの練習ができるようになってきました。もともと声明を学ぶ方法は、口伝だと言われております。口伝とは、人と人との間で直接言葉によって伝わってきた歴史のことであります。

仏教の始まりは、釈尊の教えを聞いていたお弟子が、釈尊が亡くなると、弟子から又弟子へと釈尊の説法が伝えられてきました。ですから、声明も先輩から伝えられたものを後世に伝えていくことが大切だと言われています。

その中で伝わってきた声明は、今もたくさんの先生のいろいろな教え方があります。そのため人それぞれの聞き方、理解の仕方、称え方によって少しずつ変化してくるので、教わる私としては混乱することがよくあります。しかし、先生方の声明も合っているとか、間違っているとかということは言えないのではないかと、最近、思うようになりました。

もともと一つの称え方だった声明が、たくさんの先輩方や時代、地域の中で伝わってきました。私の地域では、他宗派のお勤めと混ざって困惑することもありますが、それはその場所で伝わってきた口伝の歴史ではないでしょうか。

これからたくさんの先生のいろいろな教え方に出会うと思います。その一つひとつの教え方は今日まで人から人へ脈々と受け継がれてきた生きた声明の歴史として受け止め、お勤めをしていきたいと思います。

003人生の目的-無量寿に目覚めてこそ-

藤本愛吉

私が初めて生きたお念仏を称えておられる方に出会ったのは、もう30年以上も前のことです。その方は私の通信教育の大学時代の先生でしたが、先生に出会って初めて、私は深い驚きと共に自分に不安を覚えたのでした。

教室の前に立たれている先生の存在、また静かにお念仏を申されながら話される言葉の一つ一つが私を強く引きつけて止まないのです。思わずノートをとらずにおれないような何かが、先生の言葉の響きにありました。

そのお話の中でも、鳥の一生になぞらえた、人間の深い目覚めの生のお話を聞いて、「ああ、私も先生のところにある、深い確かな目覚めをしたいなぁ」と素直に思いました。

先生はインドの詩人、タゴールの言葉を引用されて、次のような話をされたのでした。

「ヒナは自己中心に孤立した卵の殻を破って出て、光と大気の自由を勝ち取り、鳥の生を成就する。殻は、外にどんな広い世界があるかを見えなくしている。その中はどんなに快くても、それは一撃を加えて打ち破らなければならない」(R・タゴール『生の実現』)

こういうお話しを通して私は初めて、人間は目覚めていくものであるという性質があることを知らされ、鳥の生の誕生のように目覚めていくことが、いのちの秘められている願いだと知ったわけです。

その目覚めていくいのちが「無量寿」と言われているのです。「無量寿」について、信国淳先生は「私どもは自我意識に生きる者としていのちを私有化し、私物化しながら、それをそれぞれ自己一人だけの生きる《命》(みょう・いのち)にしてしまっているのですが、しかしそういう私どもも、皆等しく、皆悉く、同じ一つのいのちを与えられてこそ生きることができているのですね。その同じ一つのいのち、それが無量寿といういのちなのです。それがアミダ(a-mita)なるいのち、つまり無量寿と言われるいのちなのです。」と示せれています。

共にここまで目覚めていきたいと思います。

002請求ばかりの私 

渡辺恵

今年も多くの方が、神社仏閣へと初詣に行かれたことと思います。初詣は、日本人の習慣になっていますので、何の疑問もなく行かれると思います。

そこで、一度初詣の中身について改めて考えてみたいと思います。

初詣の目的は何かといえば、神仏に祈り願うことです。何を願うかといえば、無病息災、商売繁盛などで自分の都合です。願いというと聞こえはよいですが、中身は欲ということでしょう。祈り願うことの中身についての意見が朝日新聞の読者の声の欄に載っておりました。それには「請求書付きの祈り多すぎる」という表現がしてありました。初詣の内容を言い当てられている意見であると興味深く読まさせていただきました。この請求書付きの祈りの内容とは、私の願いで中身は欲ですから、私の思い通りになりたい勝手な思いです。何故思い通りになりたいと願うかといえば、思い通りになることが幸せになれることと思い込んでいるからです。そうなりたいと神仏に対して請求書ばかり出しているということです。

しかし、無病息災を願うということがありますが、考えてみれば現実は老病死の人生を生きているわけですから、無病息災は不可能なことになるわけです。請求書は出すが、それに対する領収書を受け取れないのは、請求書の方に問題があるからです。請求書を出している者自身の問題はどうなっていますかと、逆に仏さまの方からの請求書を受け取らない限り、本当の領収書はいただけないはずです。その領収書とは、自分の思い通りになりたいと請求書ばかり出している私が、請求書を出す必要のない私であったと仏さまの教えを通して気づかされることではないでしょうか。

初詣を縁として我が身の在り方を考えていただきたいと思います。

001汝自当知(にょじとうち)

磯野恵昭

今年もお念仏申せる新しい年をお迎えのこととお喜び申し上げます。

今から700年程間昔、兼好法師の『徒然草』の中に、友人として相応しくないものが七つあると書いてあります。その中で嘘つきと欲張りの二つは誰でも納得しますが、他の五つに興味がそそられます。第一は身分の高い尊い人、第二は若い人、第三は病気をしたことがない頑健な人、第四は酒好きな人、第五に勇猛な武士です。

これらに共通することは、自分中心にものを考えやすく、自分の欠点や失敗を見直すことも少なく、相手の気持ちや立場を思うことが乏しいということだと思います。

自分はえらいぞ、有名だぞ、能力があるぞ、体力があるぞ、だから自分に反対することは間違っていると威張り、相手の意見を聞こうとしない人であれば、友人に相応しくないというよりも、友人ではありません。

ところで、私にはそのような傾向はないでしょうか。これは全く他人事でしょうか、どうもそうとばかりとは言い切れません。今の私は若くもなく、能力もなく、有名でもありません。でも、まだまだ私だってという自惚れが残っています。

兼好法師の言葉は一般論であるとともに、私に対して言っていることに気づくのです。
本当の私を知ることはとても難しいことです。しかし、自分を知ることは大切なことです。

価値ある、意味ある人生を過ごすために、この一年も初心に帰り仏法を聴聞し、多くの方々と慶びのお念仏を共にしたいものであります。

037あとがき

最近法話というものの難しさを痛感しています。一時期法話は古いもの、講義が新鮮に感じられた時がありました。しかし、それはとんでもないことでした。ある先生から「法話というのは仏様のお声の響きを身を通して味わった事実を語るのであって、人間の思想や考えではない」と静かな口調で説かれた時「はっ」とさせられました。ちょうど放蕩息子が親の思いが身に響いて、思わず頭が下がって、その慈悲を感じながら語る言葉は、どんなに学歴がなくても経験が浅くてもすべての人の心に染みとおるようなものでしょうか。何かができる者になろう、バカにされたくない、どうにかして理解しようとするすべての手立てが壊れた時、分かろうとするその手が撤回された時に聞こえてくるものとでも言えましょうか。

厳粛な今・この時をいただいて、罪深い身をおしいただいて生きる。そういう生活者には疲れや虚しさを通ったからこその底抜けの柔らかさがあるといえます。そういう世界をすべての人がいただける道が念仏往生の道として開かれている。その道を私も皆様とともに歩ませていただきたいと思います。

036聞くということ 

片山寛隆

情報社会という時代は、知っていなければ時代遅れであるとか、ITについていけなければ取り残されるという風潮が、大手を振ってまかり通っている時代、機械万能の現代といっても過言ではありません。しかし、一旦銀行のITシステムが故障してしまうとパニックになってしまって大混乱が起きたこと、万全のシステムが整備され、間違いが起こることはありえないと人間の理性を過信している中で、いろいろなひび割れが生じてきている時代でもあります。

今年もこの年末に、1年の世相を表す漢字が発表され、それは「災」という字だそうです。そして、その災いの多かった1年から、来年こそはとまた新しい1年の繰り返しが始まっていくことでしょう。

人間の「災い」とは、『末燈鈔』に人間の「ききわけ、しりわくるなんど、わずらわしくはおおせ候やらん。これみなひがごとにて候うなり」(真宗聖典605頁)と、理性万能に疑いをもたない在り方への問いかけがあります。

「聴聞」とは、ただ聞くということであり、そのただができない思い込みで聞くという在り方は間違いであると、人間至上主義の在り方を厳しく教えられていることを大切にしていきたいものであります。

035「勝ち組」「負け組」って何? 

大賀ゆかり

私には2人の子どもがおりますが、今年は2人ともに受験を控え、親子で落ち着かない日々を送っています。

受験に当たり、学校や塾が開催する説明会に参加しますと、近頃よく耳にする「勝ち組」「負け組」という言葉が引用され、とても不快な言葉で、反発心が芽生えてくるのですが、みなさんはどう思われますか?

「勝ち組」になったら、いったいどのような人生を送れるのでしょうか。「負け組」になると、無惨な一生になるのでしょうか。でも、「勝ち組」と位置づけられるのは、ほんのわずかな人数でしょうし、ほとんどの人は「負け組」と位置づけられてしまうことになります。

また先日、とある県の副知事がPTA研究大会の挨拶で、不登校の子どもを「不良品」と発言した問題も記憶に新しいことですが、どちらも企業の不況に立ち向かう生き残り戦略や、製品管理から出てきた言葉のようです。能力主義とか、すべてに白黒をつけていくような社会的な流れが影響しているのでしょうか。

企業や製品ならまだしも、子どもたちを物と同じ扱いにして、人の生き方や価値を「勝ち組」「負け組」という簡単な言葉で判断してしまうのは、おかしいことだと思います。

お釈迦さまは「汝は汝になればよい、汝は汝であればよい」とおっしゃっていますが、私が私になるには、勝ちも負けもないことだと思います。他人や世の中の偏った判断に振り回されない自分らしい生き方を求め、自分という存在はかけがえのないものだということに気づくことが大事なのではないでしょうか。

034生命の流れに我が身を置く 

保井秀孝

私たち地球上の生物は全て遺伝子という同じ情報源からできており、祖先は同じで、今から約三十八億年前に遡るということが近年明らかになってきました。この生命の流れに耳を澄ますと、私たち生き物がみんな遺伝子という鎖でつながっているという、驚異の世界が見えてきます。

人間は、この祖先を共有する生き物の一つの種にすぎないのであって、私たちの生きる世界は人間中心に成り立っていないことが明らかになってきます。遺伝子の世界は、人間中心・自己中心の生き方や考え方を改めること、即ち、発想の転換の必要性を語っているように思うのです。

仏教の世界とは、実はそのような阿弥陀仏の真実に目を向けなさいと語りかけている世界なのです。自己中心に自分のことや世の中を見ることしかできない私たちの愚かさを指摘しているのが、阿弥陀仏の説かれている真実の世界なのです。しかし、人間はそのことに気づくことなく、相変わらず自己中心に世界を見、自分たちの目先の都合で自然を作りかえようと躍起になり、逆に自然にしばしばしっぺ返しを食らうようになってきています。そして、私たち自身も相変わらず自己中心に生きています。自分に都合よく家族を見、地域を見、社会を見、そして他人を見ています。そのことに気づかず、それが正しいことであるように錯覚しているのです。

生命の流れに身を置く時、私たちを育んできた世界や社会の大切さを思わずにはおれないのです。私たちはこの流れの中で生命を与えられて、今生きていることに気づいていかなければなりません。そこに新しい世界が見えてくるのです。こんな世界を親鸞さんは私たちに示されているのです。