032報恩講

金森了圓

今年も報恩講の季節となり、本山をはじめ各末寺、門徒で報恩講が勤められます。報恩講は、親鸞聖人が亡くなられた日を縁として聖人のご苦労を偲び、一人ひとりが念仏に生き、仏恩を報ずる身となることを願う、真宗門徒として一年を通じ最も重要な仏事であります。

私は物心ついた幼少の頃より『正信偈』をいただき育てられました。「帰命無量寿如来」→「無量なる寿(いのち)として如来の命に帰ります」と聖人は、私たちに生まれた意義といのちの尊さを教えてくださいました。

私たちはすべてが自己中心的で、いのちまでも自分のものと思っていますが、果たして自分のものなんでしょうか。自分のものは何事も自由に指定できるものが自分のものです。しかし「生老病死(しょうろうびょうし)」を見れば、どれ一つ思うようにはなりませんので、私のものではありません。無量寿とは仏より賜ったいのちであります。だから尊いのです。

今年もあと僅かになりました。物は豊かになり夢のようなことが達成され、誠に喜ばしいことでありますが、その反面自殺者が毎年増加をたどり3万4千人を越すと報じられ、過日は小学6年生女子の殺人等、誠に悲しいことです。これにはいろいろと原因があると思いますが、現代はいのちの尊さが次第に失われつつあるのではないかと思います。今この時にあたり、以前読んだ宇野正一さんの「不運」という詩が思い出されます。

生きる望みがありません

私は死にます

ごめんなさい

お母さんと

二人の少女が鉄道自殺をした

それは彼女たちが

十七才の今日までに

「人身受け難し」の一言を

ただ一言を誰からも聞かなかった不運であったと悲しんでおられます。私はこの詩を聞き、平素軽く口癖に「人身(にんじん)受け難(がた)し」の三帰依文(さんきえもん)をいただいている自分が恥ずかしく思われ、同時にいのちの重さを感じました。

聖人のご出世がなかったならば、私はいのちの尊さを知らず流転をしなければならなかったことを思うにつけ、聖人のご恩の深さを思わずにはおれません。