017自力の執心

平野法祐

自力で生きているということは、自分が生きている、俺がやっている、俺が食べている、念仏も俺が称えているというように、何でも「俺が」が付いてしか、我々は意識を起こせない。その「俺が」という思いを破られるのが「無碍(むげ)の光明(こうみょう)」であろう。しかし、その「無碍の光明」に触れることはそんなに容易なことではない。

「俺が」という以前に我々は生きている。だからこそ「俺が」と言えるのではないかと自問自答していたところ、3才の外孫が、母親と2人で夕方遊びに来た。今までもお兄ちゃんや、母親とは何度も泊まっていったことがあるので、「今夜独りで泊まっていくか」と言ったところ、やや沈黙があって、朝になったら死んでいるとか何とか訳の判らないことを言う。それで、さらに詳しく尋ねると、「寝ている時は死んでいて、朝になると母親が生き返らせてくれている」と思っていたらしい。その辺りが子どもながらも、どうも不安だったようだ。

こんな3才の子どもでも、いのちに対する無意識の感覚を持っていることに驚き、寝ている時でも、ちゃんと仏さんは息ができるようにしてくれているのだよ。「仏さん、ありがとうと言わねば」と教えたところ、「そうなんや」と納得したように「仏さん、ありがとう」と、うれしそうに言った。

この時、「俺が」を離れた「いのちの感覚」との出会いをいただいた。いのちそのものは両親から生まれているけれども、「誰がくれた」とは到底いえないものです。このいのちのご縁に出会うということは、まことに不思議としかいいようがない。

いのちは自分以外のものと自分を、はっきりと見分けていく力をもっている。これも不思議な働きだ。そして、「自分とは何か」ということを、いのち自身はどこかで判っているようでもある。だから「俺が」というのは、いのちの後からついてきた人間の妄念ということがよく判る。

『親鸞聖人血脈文集』に「自力(じりき)と申すことは、行者(ぎょうじゃ)のおのおのの縁(えん)にしたがいて、余(よ)の仏号(ぶつごう)を称念(しょうねん)し、余(よ)の善根(ぜんごん)を修行(しゅぎょう)して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身(しん)・口(く)・意(い)のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御(おん)ちかいの中に選択摂取(せんじゃくせっしゅ)したまえる第十八願の念仏往生の本願を信楽(しんぎょう)するを、他力と申すなり」(真宗聖典594頁)とあり、また『恵信尼消息』には「風邪(かざ)心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、…臥して二日と申すより『大経』を読むことひまもなし。…名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして…人の執心、自力の心(しん)は、よくよく思案あるべし…」(真宗聖典619頁)とあり、親鸞聖人が自力の執心が如何に強いかを表白されている。

「俺が」の意識は何処からきたのか、何故だかよく判らないが真(ほんとう)の意味で、この自我に気づいていくことが「無碍の光明」に触れる根ではないかと思う。